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第5号 巻頭説教 「「御言葉に聞き入ることへ」 (2002年4月)
−ルカによる福音書10章38〜42節による説教− 望月 信(高蔵寺伝道所協力牧師)
今週も、まず第一のこととして、愛する兄弟姉妹方の皆さまと共に主なる神を礼拝できます幸いを心から喜び、感謝しています。
私たちの毎日の生活は、慌ただしさの中で過ぎ去っていきます。「貧乏ひまなし」という言葉がありますが、一生懸命働いてもなかなか生活は楽にならないという思いの中で、私たちはせわしなく立ち働きます。食事をする間も惜しみ、家族とコミュニケーションをとったり、子どもたちと遊ぶ時間、ゆとりの時間をも惜しんで生活しています。そうして「光陰矢のごとし」。あっという間に時が過ぎ去っていき、自分の手元にはいったい何が残っているのか、自分は何をしてきたのか、何も残っていないということにもなりかねない、そういう毎日を過ごしています。そのような慌ただしさの中で、このひととき、教会に集められて、御言葉に耳を傾けて、礼拝を捧げることが許されていることは感謝であり、とても大切なことです。
私たちキリスト者は、そのような日常生活の中で、七日に一度は休むことをモットーにしています。すなわち日曜日、主の日です。主の日には、生活の慌ただしさを中断して、忙しさを理由にすることを止めて、教会の礼拝に集められます。主なる神の御前にひれ伏して、礼拝を捧げること。このことが決定的です。礼拝を捧げることによってはじめて、私たちの人生に意味があるのです。自分はいったい何をしてきたのか、自分には何も残っていないという人生ではない。確かに自分の人生には意味がある、祝福され、確かなものがあると言うことができる。そのためには、この礼拝することが欠かせません。聖書はそのことを明確に語っています。
マルタとマリアという二人の女性が登場いたしました。この二人にはラザロという兄弟もいて、三人で暮らしていたようです。マルタという名前には「女主人」という意味があり、ですから、マルタが一番年長であり、一家の主人として、家族を取り仕切っていたと思われます。主イエスとその一行は、この三人兄弟の家に客として迎えられました。
主イエスとその弟子たちの一行は旅を続けておりました。ですから、これは旅の途中で客としてもてなされた出来事です。当時は旅をすると言っても、今のような自動車や電車などの交通機関が整っているわけではなく、また宿泊施設がどこにでもあるというのではありません。旅人は通りすがりの家を訪ねて、一晩の宿を請うたのです。一晩泊めていただけませんかと願って、そうして休むところを得たのです。またそれだけに、旅人をもてなすことは人間としての基本的なこととして大切にされました。ほこりにまみれ、疲れを覚え、おなかをすかせている旅人に、一晩の宿を提供し、食事を用意して交わりを持つことが、大切な憐れみの業とされていました。ルカによる福音書は、このマルタとマリアの御言葉の前に、善いサマリア人のたとえを書き記しています。強盗に襲われた人を、サマリア人が助けたたとえ話です。主イエスは、その中で、憐れむことが大切であるとお教えになりました。ルカ福音書は、隣人を憐れむことが大切であると教えて、そして憐れみをもって旅人をもてなす姉妹の姿を描きます。
主イエスとその弟子たちが来られて、マルタたちは、憐れみをもって主イエスたちをもてなそうといたしました。主イエスとその一行がいったい何人であったのか、それは分かりません。主イエスといつもそのおそばにいた十二弟子だけでも十三人になります。十二弟子以外の弟子もそばにいたかもしれませんから、もっと多かったのかもしれません。いずれにせよ、それほどの客をもてなすとは、大仕事であったであろうと思います。しかし、マルタの妹マリアは、「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」とあります。主イエスのおそば、一番近くが足もとです。「話」とは「御言葉」であり、福音の言葉にほかなりません。マリアは主イエスの足もとに座り、イエスを主と仰いで、その御言葉に聞き入っています。福音書は主イエスの御言葉に没頭している女性の姿を描き出します。「聞き入っていた」。夢中になってずっと聞き続けていた。主イエスの御言葉に引き込まれて、没頭して聞いていたということです。
福音書はもう一人の女性、マルタの姿も描いています。「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。『主よ。わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか』」。「わたしだけにもてなしをさせて」とあります。これは、私を放っておいておもてなしをさせているということです。
ここから推測されることは、おそらく、ごく当然のことですが、マリアも主イエスと弟子たちのためにおもてなしをしていたのです。家に着いた主イエスと弟子たちのために、足を洗う水を差しだし、食事を用意して、マルタと共に忙しくもてなしていたのです。そもそも当時は、男性の弟子たちに混じって、女性がそこに同席するなどということは、通常あり得ないことでした。ですから、ここで描き出される光景、女性が主イエスの足もとに座ってその御言葉に聞き入っているなど、とても許されることではありませんでした。女性はもてなすために忙しく働いていればよいというのが、当時の考え方です。ですから、当然、マリアも忙しく働き、もてなしていたのです。ところがマリアは、もてなしながら、主イエスの御言葉が耳に入り、その主イエスの御言葉に捕らえられてしまったのです。ひょっとすると、主イエスの前に食事を差し出そうとしたのでしょうか。そのときに語られていた御言葉に捕らえられて、そこから動けなくなってしまった。そうして、自分の為すべきことを放り出して、主イエスの御言葉に聞き入ってしまった。主イエスの御言葉に引き込まれて、だから没頭して聞いていたのです。
ですから、ここで福音書が描き出すこの女性の姿は、御言葉の力に屈服させられた姿なのです。何も彼女自身が自ら好き好んでそうしたのではありません。もちろん、彼女は主イエスの御言葉を聞きたかったでしょう。しかし、それは事情が許しませんでした。ですから、彼女はもてなしていたのです。しかし、そのところで、逆に御言葉が彼女を捕らえた。すなわち、主イエス御自身が彼女を招き、捕らえたのです。主イエス・キリストの愛と憐れみの故に、彼女は主イエスに捕らえられて、御言葉に聞き入る者へと造りかえられました。福音書は、御言葉に聞き入ることへと至らせられた一人の女性の姿を描くのです。ここに、私たちがまず第一に見つめるべき、信仰者の大切な姿があります。
さて、もう一方のマルタにも言い分がありました。「主よ。わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。マルタにとって、主イエスと弟子たちをもてなすこと、奉仕をすることは、当然のことでした。それは、女性に求められていることでありましたし、ただそれだけではなく、彼女も主イエスをもてなすことを喜びとしていたであろうと思います。彼女は、決していやいや主イエスをもてなしていたのではない、喜んで主イエスをもてなしていたのです。そして、マルタにとって、妹マリアも一緒に主イエスをもてなすべきであるということはごく当然のことでした。ですから、主イエスに対しても躊躇することなく、「手伝ってくれるようにおっしゃってください」とお願いしたのです。
私たちは、ときおり、マルタを弁護する誘惑に駆られることがあります。マルタのような女性がいなければ、世の中は成り立たないと思うのです。皆がマリアのように主イエスの足もとに座ってしまったら、誰も食事をできなくなるではないか。マリアもよいが、マルタのようにもてなしてくれる人も必要なのではないか、そう考えるのです。世の中には、静かにものを考えるタイプの人もいれば、活動的で世話好きの人もいるのだ。そういう違いがあるからこそ、世の中は成り立つのだ。そのように考えて、それぞれの人の個性の問題として片づけようと思う誘惑に駆られるのです。
しかし、御言葉は、そのような人間の個性について語ってはおりません。私たちはわきまえておかなければなりません。主イエスは、まったく明らかなことですが、そのようには少しも語っておられません。「マルタ、お前の言うことももっともではあるが、マリアのような者もいてよいではないか」。そうおっしゃったのではありません。主イエス・キリストは、まったく単純に、まったく明らかに、「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ」とおっしゃいました。選ぶべきものはただ一つ。マリアはそれを選び、あなたはそれを選んでいない。ただそれだけです。ごく単純です。マリアにとって決定的なこと、大切なことなのである。そうおっしゃるのです。それはすなわち、人間として決定的なこと、必要なただ一つのことなのです。だから、「それを取り上げてはならない」と言われます。彼女からそれを取り上げるならば、それは罪を犯すことにもなる。もし私があなたに同意したならば、マリアから決定的なものを奪うことになる。そうおっしゃるのです。これは非常に厳しいことです。この言葉は、マルタに対して、マリアの大切なものを取り去ろうとする罪を指摘する言葉です。
主イエスは、マルタに対しておっしゃいました。「マルタ、マルタ。あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」。マルタは、主イエスと弟子たちをもてなすということで心がいっぱいであり、そのために、多くのことに思い悩み、心を乱していました。これは、心が向かうべきところにまっすぐに向かわず、右に左にそれているということです。ですから、マルタに対して、あなたはそれで本当に私をもてなすことができているのか、そう問う言葉でもあります。あなたは私をもてなそうとしている。しかし、心が集中していない。あなたは心を乱している。そうして、本当にもてなすとはどういうことか、忘れてしまっている。マルタ、あなたはそれを忘れた。しかし、マリアは忘れなかった。だから、マリアからそれを取り去ってはならない、そういうことなのです。
主イエスは、ここで、主イエスと弟子たちを憐れんでもてなす、そのもてなしとは何かということを問うておられます。さらには、憐れみとは何かということを問うておられるのです。私たちには、人をもてなそうとして、もてなすことができていないということがあります。人に親切にしようとして、憐れもうとして、しかし本当の憐れみとはなっていないということがあります。行為としては親切にし、もてなしておりながら、しかし、心そこにあらずということがあるのです。同じように、主イエスをもてなすということにおいて、決して忘れてはならないことがある。「マリアはそれを忘れていなかった。だから、マルタ、あなたはそれをマリアから奪ってはならない。むしろ、あなたもそれを大切にしなさい」。主イエスはそうおっしゃったのです。主イエスは、マルタに対しても、このただ一つの大切なこと、決定的なことを選ぶよう招いておられます。こうして、「それを取り上げてはならない」とは、第二に、マルタに対する招きの言葉にほかなりません。
主イエスは、この出来事に先立って、サマリア人のたとえを語られて、憐れむことの大切さを教えられました。しかし、主イエスは、ただ憐れむことの大切さだけを教えられたのではありません。そのたとえを語られる前に、主イエスは、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」という律法の要約が大切であると、教えられました。ですから、神を愛することと隣人を愛することです。このことが一つのこととして語られました。すなわち、神を愛し、その御言葉に聞き入ってはじめて、人を愛することもできる。人への憐れみをもつこともできる。私たちにとって憐れみとは、神を愛し礼拝することに加えて与えられる祝福なのです。
そうであるならば、主イエスをもてなすということにおいても、神を愛することがしっかりと覚えられていなければなりません。主イエスを仰いで、その御言葉を聞いて、神を礼拝するのです。この決定的なことが忘れられているならば、この決定的なことが欠けているならば、いくらもてなしたとしても、そのもてなしは無意味である。そう言われるのです。隣人を憐れむということにおいても同じです。人を愛するということも同じです。神を愛することなく人を愛するのであるならば、その愛はむなしいのです。どんなに人の目に美しい愛であっても、それは神の御前にむなしいのであり、主の喜ばれるものではありません。だから、この決定的なこと、主イエスの御言葉に聞き入り、神を礼拝することを大切にしなさい。この決定的なことを失ってはならない。そう教えられるのです。
私たちの日常生活は、マルタのように多くのこと思い悩み、心を乱すことが多いのです。決して自分のことばかりを考えているというのではなく、人のためを考えて労苦して、そうして、人生は追いかけられるようにして過ぎ去ります。世の中は、そのように心を乱していることを求めます。さまざまなことによって私たちの心を引き裂こうといたします。しかし、大切なことがある。決定的なことがあるのです。この決定的なことを失うならば、いくら心配りをしても、いくら慌ただしく生活しても、それは無意味なのです。
マリアは、慌ただしい有様、もてなすことを求める周囲の状況の中から、御言葉に聞き入ることへと引き込まれ、御言葉にひれ伏しました。御言葉には、そのような周囲の状況を打ち破る力があります。私たちは、その御言葉の前にひれ伏します。へりくだって、謙遜になって、主イエスに捕らえていただくのです。主イエスに自らを差し出し、へりくだって御言葉に聞き入るのです。そうしてはじめて、私たちはすべての重荷から解き放たれます。主イエス・キリストに依り頼むことが始まります。主なる御神お一人を私の主とすることが始まるのです。
私たちが教会に集められている幸いは、それを一人でするのではなく、共同体の業として、兄弟姉妹と共にするということにあります。マルタとマリアも、姉妹の関係の中で、御言葉に聞き入る者として成長させられました。私は、マルタも主イエスの御言葉に聞き入る者とされたことを確信しています。私たちも、愛する兄弟姉妹の交わりの中で、またそれぞれに与えられた教会の群れの中で、共に礼拝を捧げ、御言葉に聞き入る訓練を受け、主の御前に成長させられます。私たちには、主の導きと励ましを確信することが許されています。
御言葉に聞き入ること。これが、すべての人にとって必要なただ一つのことです。騒がしい中にあって、すべてを忘れて御言葉に聞き入り、御言葉に没頭する時が必要です。私たちは、自らの人生が主なる神の祝福に満たされるよう、神の御前に喜ばれるものであるよう、祈り願います。そうであるならば、私たちは、御言葉にひれ伏すことを選び取りたい、大切にしたいのです。御言葉に聞き入ることに励むのです。
第6号 巻頭説教 「あなたを解放するあなたの神」 (2002年7月)
−出エジプト記20章1, 2節による説教− 春名 義行(津島伝道所宣教教師)
たいていどこの国でも憲法が制定されています。その憲法には前文があって、続いて憲法そのものの内容が記されています。それは日本国憲法でも同様です。憲法の前文は、憲法の本文の内容を規定しています。憲法の内容は、その前文の規定の中で解釈されなければなりません。
この十戒の前文もさまざまな憲法の前文と同様、十戒の内容を規定しています。十戒の内容は、前文の規定の中で解釈されるべきものなのです。ですから、この十戒の前文は非常に大切です。
この十戒の前文はまず神様の自己紹介です。神様は御自身を「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」と示してておられるのです。
神様はこの自己紹介において一つのことを語っておられます。それは、「主」という事柄と深く関わっています。この「主」という呼び名は、神様が自己紹介をなさるときたびたび用いられる名であり、救いの歴史の重要なときに神様はしばしばこの名をもって御自身を示されました。この箇所も、救いの歴史の重要なときにほかなりません。イスラエルをエジプトから導き出された、出エジプトの出来事なのです。
この前文においてまず、イスラエルの民にエジプトから導き出されたという出来事を思い起こさせるのです。そして、その出エジプトの出来事を通して示された神様の恵みを思い起こさせるのです。そのことによって、この十戒をお与えになった神様がイスラエルの民を贖い出され導かれた恵みの神様であることを、イスラエルの民はもちろん、私たちにも示すのです。
しかし、この前文において神様の恵みを示しているというだけではありません。さらに、この前文において、イスラエルの民をエジプトから導き出されたほどに御自身の民を愛される神様の熱愛、また情熱が示されています。この十戒を与えられた神様は御自身の民を愛しておられるのです。それはただ愛しているというのではなく、熱愛しておられ、その愛故に民を奴隷の家から導き出され、最後の時まで守り導いてくださる方であることが明らかにされているのです。しかも、イスラエルの民が何かしたから奴隷の家から導き出すというのではなく、神様の一方的な恵みによって導きだしてくださるのです。それほどに神様はイスラエルの民を、すなわち御自身の民を深く愛しておられます。この神様の愛は、イスラエルはもちろん、いま神の民とされているあなたにも示されているのです。
神様は御自身の民を愛され、その愛故に大きな恵みを示し、また出エジプトによって示されますようにどんな局面にあっても御自身の民を守られます。それはあなたに対しても同じであるのです。神様はそのようにして御自身の熱愛を御自身の民に示されました。
この十戒を与えられた神様は、御自身の民を熱愛なさり、そのために情熱を傾けられ、恵みと導きを与えてくださる方です。私たちの神様はそのような方であることが、この前文を通して明らかに示されているのです。そして、この神様の熱愛を知り、それを思うことができるならば、神様の戒めに従えるはずであるということがこの前文において示されています。この主への従順こそが主との関係において、最も重要な事柄です。
この民を熱愛し、恵みを与えてくださりそれゆえに私たちに従順を求められる神様が、この十戒という戒めを与えられたのは、イスラエルの民に対してでした。しかし、この前文を見ますと、「わたしはあなたの神。あなたを・・・」と続きます。このところで、イスラエルの民に対して「あなたがた」といわず、「あなた」と呼びかけておられるのです。イスラエルの民は集団でありますから「あなたがた」と呼びかけるほうが自然であるはずであるのに、このところで神様は「あなた」と呼びかけておられるのです。
神様はこのところで「あなた」と二人称単数で呼びかけておられるのは、まず何よりも、この民の一人一人に対して呼びかけておられるからです。まさに「あなた」なのです。十把一絡げにいい加減に呼び掛けておられるのではありません。また、この呼びかけはイスラエルの民の一人一人に対して呼ばれているのと同様に、今聖書を手にしてこの箇所を読んでいるあなたにも呼びかけられてる呼びかけです。まさにあなたであるのです。この「あなた」というところにあなたの名前を入れて読むことができるのです。この戒めを与え、御自身の民を愛されそのために情熱を傾けてくださるこの神様は「あなた」の神様なのです。その神様は、先に見ましたようにあなたを深く愛され、あなたに情熱を傾けておられるのです。その神様が今あなたにこの戒めを語ろうとしておられるのです。
しかし、この「あなた」という呼びかけは、確かに個々人に対してなされている呼びかけですが、もう一方でイスラエルの共同体を一つの人格的存在として、一人の人と見なしてなされているものでもあります。この呼びかけは個々人になされていると同時に共同体に対してもなされているのです。これは教会共同体に対しても同じなのです。神様はイスラエルの共同体も教会共同体も一人の人としてごらんになり、その共同体に対して、今あなたと呼びかけておられるのです。共同体はキリストをかしらとするキリストの体ですから、一人の人のように一つでなければならないのです。
そのあなたと呼ばれる一人一人に、そして、その教会共同体に対して、神様は、「わたしはあなたの神」とおっしゃってくださるのです。つまり、神様は情熱と深い愛をもって「あなた」の神となるとおっしゃってくださっているのです。神様は今この御言葉を聞いているあなたの神様となって下さり、この御言葉を聞いているこの教会共同体の神様となって下さると約束してくださっているのであり、まさに、あなたのそしてこの教会の神様となって下さっているのです。そのような関係になって、神様はあなたを愛し導いてくださるのです。
神様は遠くにいる神様ではありません。あなたの神様として、また、この教会共同体の神様として、あなたのすぐ側にいて下さる方なのです。その方が、今あなたに深い愛と情熱を示して下さり、戒めを与えて下さるのです。ですから、このようにあなたの神様となって下さった方に対して、私たちは従順に従っていくのです。それは、強制ではなく、わたしの神様となって下さった神様に喜びと感謝をもってなす事のできる事柄です。
神様はイスラエルを愛し、イスラエルを守るイスラエルの神様として御自身を示されました。その神様のイスラエルに対する恵み深いお働きは、「エジプトの地、奴隷の家から導き出した」と記されている事柄です。神様はイスラエルを奴隷の束縛の中から贖い出されたのです。その贖いの御業は神様の一方的な恵みによって与えられたものでありました。
民が奴隷の状態から贖い出されたということは、民に自由が与えられたということです。神様の恵みの恵みによる贖いの御業が示され、自由が与えられたのです。この神様が与えられた自由は、神様を礼拝する自由であったのです。モーセは、「神様に献げ物をささげ、礼拝をするために、荒れ野に行かせて欲しい」とファラオに願っていました。つまり、奴隷とされている間、神様に自由に礼拝をささげることができなくなっていたということであります。しかし、この神様の贖いの御業によって、イスラエルの民は神様に従い、神様に礼拝を捧げることができる自由を得たのです。
民に自由を与えられた神様が民に与えられたこの戒めは、民を縛るためのものではありません。神様はこの戒めをお与えになったとき、民に対して「わたしはあなたの神である」と宣言なさっているのです。つまり、この民は神様から神の民となると約束されただけでなく、神の民となっているのです。その民に対して神様は戒めを与えられたのです。しかし、神様は束縛から導き出された神様ですから、その愛する民を束縛しようとこの戒めを与えられたのではありません。この戒めは、神様によって贖われ神様の民とされたものがどのように生きればよいかを教えてくれるものです。神様は深い愛と熱情を以てイスラエルを導かれ、御自身の民とされました、その民がいかに生きるべきか、それが、与えられた戒めなのです。
その神様が与えられた戒めが示す自由は、先ほども少し言いましたように、神様に従い、神様を正しく礼拝し、神様に祈りと賛美をささげることのできる自由です。奴隷の状態では自由にすることのできなかったことが自由にできるようにされたのです。神様への礼拝と賛美と祈りに向かう生活、神様を生活の中心とし、神礼拝を生活の中心とする、そのような生活を示しているのです。それこそ、神様の民イスラエルがなすべき生活であり、神様がイスラエルに求め続けられた生活であるのです。また、そのような自由をイスラエルに与えてくださったのがこの神様であるのです。そして、神様を中心とし、神様を自由に礼拝することができる状態とは、人間が創られたときに与えられていた、幸いな状態を回復したということにほかなりません。
イスラエルに与えられたこの自由は、主イエスの贖いの御業に与り、主イエスを神様の御子また、救い主と信じるあなたにも与えられているものです。私たちは生まれたままの状態では罪の奴隷でした。罪の奴隷とされている者たちは、神様に背き、神様の方を向こうともせず、神様に逆らい続ける存在なのです。神様を礼拝するように造られた人間が、神様を礼拝できないように罪が束縛し、本来の自由を奪われてしまっているのです。あなたもそうであったのです。しかし、あなたは、主イエス・キリストの贖いの御業と神様の私たちへの愛により、救いへと入れられたのです。それによってあなたはもはや罪の奴隷ではなくなったのです。罪の奴隷ではなくなったということは、神様を自由に礼拝でき、神様を自分の中心に据えることのできる本当の自由を獲得したということです。この与えられた自由は、あなたにそれを得るのに相応しい何かがあったからではありません。この自由は、「わたしはあなたの神である」と宣言され、私たちを深く愛し、情熱をもって導いてくださる神様が一方的に与えてくださったものなのです。
先にも言いましたように、この与えられた自由を十分に用い、神様に従い神様を第一とし、神様を礼拝することをその生活の中心として生きる生き方、つまりは神様の民がどのように生きるべきかが、この十戒という戒めに記されているのです。
この事実が、あの短い「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」との言葉によって示されているのです。そして、「わたしはあなたの神主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。その私を知っているならば、これこれのことをするはずはない」と、この前文が全ての戒めを規定するのです。
この前文は神様の恵みと愛を示し、神様がどれほどあなたを愛し、あなたのために情熱を示されているかを示す言葉です。そして、この神様があなたに自由を与えられたことを示している言葉です。もしこの前文がなければ、十戒は非常に冷たい厳しい戒めとなってしまうでしょう。しかし、神様の与えてくださった愛と恵みと自由がこの前文に示されています。この前文に規定されて、この十戒を読むとき、あなたに示された十戒の恵みと慰めを知ることができるのです。
そのことをよく心に置き十戒に示されたあなたへの恵みを今一度覚えようではありませんか。主はまず、「わたしはあなたの神、主である。あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した神である」と、あなたにも御自身を示してくださっているのです。
第7号 巻頭説教 「次の世代に向き合うために」 (2002年10月)
−テサロニケの信徒への手紙2章7〜12節による説教− 二宮創(筑波みことば教会牧師)
「これからの改革派教会」・・・・これが修養会の主題である。私たちが大会をあげて機構改革や、女性役員や、適正な財務について取り組んでいるのは、今ここにいる教会役員のため以上に、私たちの教会の未来のため、すなわち次の世代の兄弟姉妹のためにほかならない。私たちの労苦は、次世代のための奉仕とも言えよう。
今回の特徴は、私たち教会役員が、改めて次世代に向き合おうとする営みにある。この場で奉仕して下さる兄弟姉妹たちのみならず、教会に居るはずなのに姿を消してしまった契約の子たちや、教会に来ても居場所を見つけられないでいる若い世代、教会に見向きもしない巷の若者たちとも、向き合いたいのである。
修養会を始めるに際して、私たちはまずもって御言葉に耳を傾け、使徒パウロが教会の次世代にどう向き合ったかについて、ご一緒に思いを巡らそうではないか。
「テサロニケの信徒への手紙」は、使徒パウロの書簡の中でも最も初期の作品と言われる。初代教会に対する使徒の初々しい教えが、ここに残されている。しかもこの手紙は、迫害によって引き離されてしまった使徒パウロが、生まれたばかりの乳飲み子のような教会に、何とかして命の糧・霊の乳を送り届けようとする情愛に満ちており、霊的に幼い兄弟姉妹を懸命に養い育てようとする親心に溢れている。
苦難の中にある兄弟姉妹たちが、「信仰によって働き、愛のために労苦し、希望をもって忍耐している」様子を伝え聞いたパウロは、矢も盾もたまらず筆を取って、1章の始めから3章の終りまでという異例の長さで挨拶をしたためた。先程朗読した2章7〜12節には、使徒と教会共同体が一緒にいた頃の様子が回想されている。
7〜8節、「私たちはキリストの使徒としての権威を主張することが出来たのです。しかし、あなた方の間で幼子のように成りました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、私たちはあなた方をいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなた方は私たちにとって愛する者となったからです。」
驚くなかれ!パウロはなんと!福音を宣教する自分の使命と献身を、「幼子に対する母親の営み」に譬えている。7節〈母親〉と訳された言葉トロフォスは、生みの親を意味する母メーテールと区別されて〈乳母、養育者、看護婦〉を意味する。キリスト信者の生みの親は、造り主・贖い主・慰め主なる神ご自身にほかならない。パウロはそのことを意識して、「幼子に乳を与える乳母」に福音宣教者である自分を譬えているのである。幼い教会に霊の乳を与える使徒は、7節〈大事に育てる〉乳母に譬えられる。〈大事に育てる〉と訳された言葉は、もともと「温める、和らげる」という意味を持つ。乳児を胸元に抱き寄せて温める・・・・幼子の顔を見つめながらその心を和らげる・・・・そんな乳母の姿が見事に浮かび上がってくるではないか。霊的に幼い兄弟姉妹に霊の乳を与える仕方も、これと同じだというのである。
注目すべきは、8節〈神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願った〉という告白である。幼子を温め、和らげ、霊の乳を飲ませる。この営みを経てパウロは、自分の命さえも与えて悔いなしという境地に至った、というのである。この情愛こそ、主イエス・キリストが十字架で示された犠牲的愛、あの神の愛に倣う愛でなくて何であろう。残念なのは、7節〈あなた方の間で幼子のようになりました〉という読み方である。これでは折角の譬が台無しになってしまう。実はここには、もう一つの本文が伝えられている。口語訳のように〈あなた方の間で優しく(柔和に)振る舞った〉と読むべきであろう。
使徒パウロは、霊的な乳飲み子たちを招き寄せる柔和な乳母、幼い兄弟姉妹たちに霊の乳を自分の命と共に与える優しい母親。この麗しい回想録は、更にこう続く。
9〜12節、「兄弟たち、私たちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。私たちは、誰にも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなた方に宣べ伝えたのでした。あなた方信者に対して、私たちがどれほど敬虔に、正しく、非難されることのないように振る舞ったか、あなた方が証しし、神も証しして下さいます。あなた方が知っている通り、私たちは父親がその子供に対するように、あなた方一人一人に呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。御自身の国と栄光に与からせようと、神はあなた方を招いておられます。」
もう驚かない!パウロは期待通り!自分の使命と献身を、今度は「子供に対する父親の営み」に譬えている。古代の父親像を用いて、自分の営みのもう一つの側面をいきいきと描くのである。9節〈誰にも負担をかけまい〉。キリストの福音によって誕生した神の子たちを、わが子と認知した父親は、幼い子供たちに負担をかけまいと〈労苦し骨折った〉〈昼も夜も働いた〉。経済的負担をかけて教会の成長を妨げることがないように、パウロは福音宣教の働きの傍ら、自分でパンを得るためにも、額に汗して働いたのである。
教会の次の世代の成長を願い、経済的負担をかけまいと働く父親パウロは更に、信者である子供たちに対して、10節〈敬虔に、正しく、非難されることのないように振る舞った〉と告白する。神の御心に適うように、自ら姿勢を正した。世にあって咎められる所のない清い者とされるように、邪悪で曲がった時代にあっても非の打ち所がない神の子供とされるように、自ら模範となって一生懸命に努力した。そう告白するのである。この姿は、律法の文字や世間の体裁を気にして、ビクビクするような姿と全く違う。むしろ、聖霊の恵みと感謝の生活に心がけて、晴れ晴れと礼拝・賛美・奉仕・勤労する「赦された罪人の姿」である。
自らを罪人と称してはばからず、しかも赦された罪人として生きる模範を子供に示し、12節〈一人一人に呼びかけて、神の御心に沿って歩むように励まし、慰め、強く勧めた〉とある。〈励ます〉と訳された言葉は「傍らに呼ぶ」の意、〈慰める〉と訳された言葉は「傍らで語る」の意、〈強く勧める〉と訳された言葉は〈証言する、証かしする〉の意である。子供を傍らに呼んで語りかけ、神と共に歩む道筋を自らの模範をもって証しする。この姿こそ、地上を旅されたキリストの受難と栄光の姿、弟子たちと共に歩まれた主イエスに倣う姿でなくて何であろう。
戦後50年。まもなく60周年を迎える、日本キリスト改革派教会の歴史を振り返る時、そこに私たちは、パウロそっくりの先輩たちの姿を見るのである。幼子を胸元に抱き寄せて霊の乳を含ませる母親たち、子供の傍らで神と共に生きる模範を示す父親たちを見るのである。キリストの十字架に示された犠牲的愛に倣って、霊的な幼子を愛し抜いた母親たち。主イエスの受難と栄光に満ちた旅人の姿に倣って、育ち盛りの兄弟姉妹を教え諭した父親たち。そんな先輩たちを思うのである。
先輩への感謝を共有する私たちは、ひとつの痛みをも共有している。霊的な父親や母親から受け継いだ愛を、次の世代に伝えようと努力しているのに、それが思うにまかせないという痛みである。先輩たちのやり方に倣い、キリストの愛を受け継がせようと労苦しているのに、なかなか次世代に伝わらないという痛みである。見落としてはならないこと。それは、次の世代たちにも痛みがあるということを。今ここにいる私たちと、心が通じない・・・・話しても分かってもらえない・・・・そんな痛みを、彼らも抱いているのである。今ここに、世代間の大きなギャップがある。それぞれに痛みを覚えながら、ただ言葉もなく、遠巻きにお互いを見つめている。そんな世代間の破れ目に今、私たちは立たされているのである。
では、私たち教会役員は何をなすべきなのか。それは、世代間の破れ目に立っていて下さる主イエス・キリストの御姿を、霊の眼でしかと見ることではなかろうか。神でありつつ人となられた仲保者が、私たちの痛みだけでなく、次世代たちの痛みを共感していて下さるからである。主イエスへの全幅の信頼がなければ、キリストに倣う私たちの営みは空しい。しかし、主イエス・キリストへの信頼さえあれば、使徒パウロに倣って次世代に向き合う営みは、必ず実を結ぶに違いない。
(2002年6月11日、大会役員修養会・開会礼拝にて)
第8号 巻頭説教 「祈りを祈る −信仰を生きるとは−」 (2003年1月)
聖書: ガラテヤの信徒への手紙 2章15節〜23節、ヨハネによる福音書 14章1節〜14節
相馬伸郎(名古屋岩の上伝道所宣教教師)
ある日、弟子たちは、「誰が天国で一番偉い者になれるのか」と議論したことがあります。主イエスは彼らにおっしゃいました。「心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入る事はできない」。それ以来、キリスト者の口から、しばしば「幼子のように」なるということが言われるようになりました。
「子ども」という主イエスの言葉のイメージに導かれて、今皆様と、小学校に入学したばかりの1年生の頃を思い起こしてみたいと思います。学校でひらがなを学びました。漢字を学びました。その時、私どもはどのように文字を身につけたのでしょうか。私の子どもの頃、与えられた練習ノートには、先ず太くて黒い文字でひらがなが記してありました。そして、その左側には、薄い灰色の文字で、お手本が印刷されていました。子どもたちは先ずそのお手本をなぞってみるのです。これが、「あ」という文字。何度も、何度も、その薄い灰色の文字で印刷されていた「あ」という文字の上を鉛筆で、なぞりました。その後、習字も習いました。この時も、お手本を見せられました。先生が赤い文字で、お手本を書いてくれました。半紙に何度も何度も、お手本を見ながら、真似して書いてみます。とても、むつかしい。思うように、手が動かない。しかし、あるとき、ふっと気がつくと、先生が後ろから近づいて、私の手を握る。そして、私の手を動かす。そうすると、自分の筆が動きだす。お手本の字をなぞるように動きだす。そして、自分の半紙の上にまるで大人のような、お手本のような立派な字が現れ出る。まばゆいような、照れてしまうような上手な字。おそらく、皆さんも同じような経験をなさったことがおありなのではないでしょうか。
実に、キリスト信仰とは、聖書の救いの道とは、この初めて文字を習う幼子の姿勢、あり方にとても似ています。救いとは、あたかもお手本の上になぞるように、まさに信仰の対象である主イエスをなぞること、つまり、主イエス・キリストと一つに結ばれる事であります。主イエス・キリストと結合すること、一致することであります。しかも不思議な事に、なぞっている自分の手は、ほかならない主イエス・キリスト御自身が握っていてくださり、なぞらせていてくださる、そのようなことなのであります。そして、自分では、恥ずかしくなってしまうような、見事な、新しくされた自分自身をそこに発見するのであります。思いもかけない、主イエス・キリストによってかたどられた新しい人間がそこに現われてゆくのであります。これが、信仰の歩みなのであります。救われた生活、キリストにある新しい人生であります。
このようなキリスト信仰でありますから、お手本が決定的に大切であります。信仰を生きるとは、ただ自分が信じる道を突き進むというものでは、全くありません。信仰の道とは、自分で新しい道を切り拓くようなものとは異質であります。つまり、キリスト教信仰とは歩むべき道は既にきちんと備えられているのであります。私どもは、神が備えていてくださる「その道」を歩むことなのであります。つまり、信仰を生きるとは、「その道」を生きることなのであります。「この道」から脱線すれば本人は信仰を、キリスト教信仰を生きていると言い張っても、それは全く空しい言葉であります。また、キリスト信仰は、ひとりぼっちで歩むものではありません。キリストの体なる教会と共に、キリストの共同体を築きながら天国へと旅する歩みであります。ですから、お互いのお手本が共通でなければ、キリストとの交わりはおろか、キリストにある交わり、共同体の絆を結ぶ事は不可能であります。
字を習い覚える幼子にとってのお手本ではなく、私どもにとってのお手本とは何か、なぞるべきものは何か。言うまでもなく生きておられる主イエス・キリストであられます。主イエスは、御自身が十字架に赴かれる直前に、このようにおっしゃいました。「わたしが道であり、真理であり、生命なのです」。主イエス御自身が道。主イエス御自身が父なる神のもとに行く、その道だとおっしゃいました。ここでは、天国への道が話題になっているのであります。主イエスはおっしゃいます。2節、「わたしの父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたの為に場所を用意する」。4節、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」。このお話の流れから、主イエスが、「わたしが道であり、真理であり、生命なのです」とおっしゃったことは、文脈としてはスムーズに繋がらないのではないでしょうか。「わたしが道を教える、あるいはわたしが父なる神への道を指し示す」と言うことなら分かります。しかし、「わたしが道」であるとは、簡単には飲み込めない言葉かと思います。さらに、6節、「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことが出来ない」。キリストを通るとか、キリストを通過するとか、キリストが道そのものであるという表現は神秘的とも言える表現であります。
主イエス・キリスト御自身がここで、キリスト信仰、神の子として生きる道とは、道でありたもうキリスト御自身を踏みしめて行くことであると明言されました。御自身と一つに重ねあわされる、結び合わされる、それこそ、救いであり、救われて生きるあり方であるとおっしゃいました。主イエス御自身が道となって、私ども自身の道は、この道を通ることによって、一つになる、キリストと重ね合わされるようにして生かされるのであります。
さて、キリスト教の信仰生活、キリストの道を歩む人と、信じていない人との明らかな違いとは何に現れ出るのでしょうか。いったい、キリスト者の生活の特徴とは、何でしょうか。いくつもあげる事が出来るでしょうが、単純に申しまして、「祈り」、祈りをすることではないでしょうか。信仰生活を始めるとは、キリストの道を歩み始めるとは、先ず、祈りを覚えることから始まったものであることは、私どもの体験そのものではないでしょうか。
それなら、祈りをし始める、神に祈りをささげげることを覚え始める、これはどういうことを意味しているのでしょうか。先ず、何にもまさって大前提となることは、祈りとは、まず、神に呼びかけられてこそ始まるものだという真理であります。誤解してはなりません。私どもが神を求め、呼んだから神が答えてくださったのではありません。神は、私どもが神を呼ばない先に、私どもを呼び続けていてくださったのであります。キリスト教の祈りとは、神の呼びかけ、神の救いへの招きを受けたと、その招きの言葉を聴きとって初めて始まるものなのであります。神の招き、呼びかけに応答する事が、本当の祈りなのであります。神に呼びかけられた者の、神への呼びかけがキリスト教の祈りなのであります。神を「私の父、私どもの父」と呼ぶことが出来るのは、神が「わたしの子よ、わたしの子らよ」と呼んでくださったからなのであります。私どもが「我が子」と呼ばれることがなければ、本来、神を父としてお呼びする事は許されないことであります。祈りは始まるとは、神が先ず働きかけてくださる、神から始められている業なのであります。
しかも神は、ただ天から直接に私どもに語りかけることはありません。先ほども申したとおり、神は、御自身の御言葉を聖書に記されました。神は、今、記された聖書を通して私どもに語りかけ、私どもを呼んでおられます。つまり、聖書に記されている御言葉が私どもに祈りの生活を呼び覚ますのであります。祈りを与えるのであります。聖書から語りかけてくださるお言葉を聴くことが私どもに祈りの言葉を与える事となるのであります。
キリスト教信仰は、道でありたもうキリスト御自身を踏みしめて行きながら、そこでキリストの道と自分自身の道とが一つになる、キリストと自分自身とが一つに重ね合わされることであります。そのようにしてキリストと結合して生きることであります。そして、そのあり方はは、祈りにおいてもまた全く同じであります。むしろ、祈りの道を進む事によって、道なるキリストと一つに結ばれることが起こる、キリストとの交わりとは、祈りにおいて実現するのであります。しかも祈りにおいても、私どもが何もない道を切り開いて行くわけではありません。既に、道がある。祈りの道が備えられてあるのであります。
ウエストミンスター信仰規準には、「恵みの手段」という言葉があります。平たく申しますと、主イエス・キリストと一つに結ばれるための道、方法、手立て、手段であります。それは、御言葉と聖礼典と祈りの三つであります。つまり、祈りは、主イエス・キリストと一つに結ばれるための、交わりのための道、方法、手立てであります。主イエス・キリストと結合するとき、私どもは、言うまでもなく、主イエス・キリストの祝福の全てを受けることができます。
それなら、祈りを呼び覚ます、祈りを与える聖書の御言葉の中で、一番ふさわしいお言葉は何でしょうか。それは、古来、教会が祈り続けてまいりました、主イエス・キリストの祈り、主の祈りでありましょう。これほど、長く、広く祈られてきた祈りの言葉はほかにありません。教会が地上にある限りは、すべてのキリストの教会はこれからもこの祈りを祈り続けて参ります。何故なら、この祈りは、主イエス・キリストが祈ることをお命じになった、主イエス・キリスト御自身が祈り続けられた祈りだからであります。これこそ、祈りの言葉の代表であります。いえ、それ以上のものであります。主の祈りは、私どもがなすべき「祈りのなかの祈り」であります。祈りの道、原型、模範、模型であります。私どもが主イエス・キリストと一つにされるために、主イエス・キリスト御自身が、主の祈りを、既に与えていてくださるのであります。主イエス・キリストは、どのように祈ったらよいのか分からない、祈りを知らないし、できない私どもに向けて、主の祈りを明かしてくださったのであります。ですから、この主の祈りは、私どもの祈りの道そのものであります。主イエス・キリスト御自身が父なる神への道そのものであられますが、主の祈りは、祈りの道そのものなのであります。祈りへの道ではなく、祈りの道そのものなのであります。
「天にまします我らの父よ」と、これは、本来、神の独り子なる主イエス・キリストのみが呼びかることの許される、神への呼びかけであります。しかし、今や、私どもは、主イエス・キリストを信じる信仰が与えられ、主イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪を赦され、人間となられた主イエスの兄弟、弟、妹とされました。そのようにして、神の子としていただきました。神の御子が「天にまします我らの父よ」と祈られた言葉を今、主イエスは口移しのように私どもに祈らせられます。そこにおいて、本来、主イエス・キリストこそが祈ることができる祈りを、まるで自分のもともとの祈りの言葉のようにして祈らせていただくことができるのであります。まさに、主の祈りを媒介にして、私どもキリスト者、神の子らは、御子イエス・キリストと一つとされていることを確信させられるのであります。これこそ、祈りの主要な目的にほかなりません。そうであれば、主の祈りにまさって、その祈りの目的が達せられる祈りがほかにあるだろうかとすら思います。私どもがキリスト者として生きる上で、その最初の頃も、今のこの時も、そして将来も、全ては生けるキリストとの交わり、キリストとの結合こそ私どもの信仰の一切であります。キリストと結ばれることが全てなのであります。
説教の最初に思い起こした、小学校に入学した幼き頃のことを今ここでもう一度思い返したいと思います。あの文字を習い覚える時に、練習ノートに灰色で印刷されたお手本をなぞるように、キリスト御自身をなぞる、キリストと一つに重ねあわされる、それがキリスト者の生活、歩みなのであります。キリストをなぞる以外に、キリスト者はキリスト者であることができません。その意味で、お手本であるキリストをなぞることであります。そのときに、私どもの生活は健やかになるのであります。そして、そのお手本とは、具体的には、主の祈りを祈ることであります。主の祈りを自分の口に入れ、自分の言葉に移して祈ることであります。そうであれば、これは、ただ単に、主の祈りを暗記して、機械的に唱えることとは違ってまいります。自分の表現で、自分の言葉で、主の祈りを翻訳する、自分の具体的な生活のなかで、主の祈りを祈る時には、たとえば御名をあがめるために、「これこれ、こうさせてください」、まさにその人自身の固有の課題に基いた祈りが生まれてよいし、生まれて来るはずであります。
しかし、キリスト御自身、そして、主の祈りというお手本からそれてしまった時には、それがどれほど、充実している生活、活動的な信仰生活であったとしても、それがどれほど、楽しく豊かな信仰生活だと自分で実感できたとしてもそれは、神の御前に価値がありません。信仰は、道なるキリストご自身と結び合わされること、信仰の道そのものであるキリストと一致していなければ、無意味なのであります。
お手本をなぞる、それはまた、角度を変えて表現するならこうなります。使徒パウロは、ガラテヤの信徒への手紙第2章19〜20節でこう証しています。「わたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身をささげられた神の子に対する信仰によるものです」。
これは、あたかも習字のお手本を見て、難しいなとため息をついている我々の小さな手を、先生が上からつかんでなぞらせてくださることに似ております。キリストが私をつかんで、キリストが私の内に生きてくださり、住んでくださり、キリスト御自身と結び合わせ、キリストのように歩ませようと捕らえてくださるのであります。祈りは、その意味で、自分が空っぽになって、イエス・キリストに生きていただく術であります。そして、これが信仰を生きることであります。自分が空っぽになってそれだけにキリストに満たされて、そのようにして、神の御意志が私どもを支配する、それが信仰を生きることであります。
しかし、道を示されているにもかかわらずなお迷い、見失いやすい私どもであります。また、もともと道を歩むための力を持っていないのが私どもであります。だからこそ、父なる神は、常に、憐れみを持って祈りへと招きよせてくださり、祈りを通し、特に主の祈りによって、キリスト御自身と結んでくださり、この祈りを通して、キリストの命、キリストの力、キリストの愛、キリストの霊を、キリスト御自身を私どもを満たしてくださいます。
これから私どもは、それぞれの奉仕の場に散らされようとしております。しかし、そこでも主の祈りという祈りの道、この絆によって、私どもは、主イエス・キリストと一つにされます。それだけでなく、お互いに一つにされるので。しかし、それだけに、私どもは、この神の民の祈りの家を慕い求めるのではないでしょうか。「我らの父よ」、「私どもの父なる御神」、と呼びかけるとき、教会の仲間を忘れて、父をお呼びする事は出来ないからであります。このようにして、兄弟姉妹への愛もまた呼び覚まされるからであります。
そして神は、教会の主日礼拝式に、恵みの手段の三つ、御言葉の朗読、特に説教、祈り、そして聖礼典を備えていてくださいます。この三つによって、私どもを、御子イエス・キリストと結合させようと待っていてくださいます。ですから、私どもは、来週の日曜日もここへと喜びのうちに集められます。そして、キリストとの絆、お互いの絆を深めさせ、強めていただくのであります。私どものこの歩みこそ、信仰を生きる本道であります。このようにして、私どもは、キリストと結ばれて、天国へと力強く前進し、上昇して行くことが出来るのであります。
祈祷
私どもの先頭に立ち、またしんがりにも立ち、共に歩んでいてくださいます主イエス・キリストの父なる御神。私ども自身を、御子の歩みに、御子イエス・キリスト御自身に重ね合せてくださいました救いの恵みを心から感謝申し上げます。しかし、その御子を見失って、勝手な道へとそれてしまうこといくたびであろうかと御前に恥じる者であります。いよいよ、御言葉を聴きつづけ、祈りをささげげつづけ、聖礼典にあずかり続けながら、終わりまで御子イエス・キリストと結ばれて歩み続ける事ができますように、御霊を注いでください。生きているのは私ではなく、キリストがわたしの内にあって生きておられる、働いておられることを確信させてください。そのようにして、常に主イエスの支配を自覚的に受け入れることができますように。主イエス・キリストの御名によって、アーメン。
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