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第9号 巻頭説教 「子どもたちに福音を」 (2003年4月)
−マルコによる福音書10章13〜16節による説教− 春名義行(津島伝道所宣教教師)
主イエス・キリストは、弟子たちに、「わたし(キリスト)の名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(マルコ9:37)とおっしゃいました。キリストにあって子どものような小さな者を受け入れることの祝福について教えられました。もちろん、この御言葉は単に子どもを受け入れなさいと教えているだけではありません。しかし、力のない小さな者をキリストの名のゆえに受け入れることの重要さは明らかです。ところが、主イエスによってそのように教えられていたにもかかわらず、弟子たちは、主から祝福していただこうとして主のみもとに子どもたちを連れてきた人々を拒否し、それを阻み叱りつけました。彼らは、子どもに祝福をいただこうとする親とその子どもを受け入れることなく、激しく拒絶したのです。
この弟子たちのとった態度を私たちは冷ややかに見て軽蔑したりする事はできません。むしろ、彼らのこのような態度は、私たちも良く理解できるものです。子どもというものは、端から見ているぶんにはかわいい存在です。しかし、実際に関わると煩わしくうるさいとさえ思えるのも事実です。そのような子どもたちを連れてきた人々を見て、弟子たちは、「休む間もないほど忙しい自分たちの先生を少しでも煩わせたくない」と考えたのではないでしょうか。彼らは自分たちの先生である主イエスを思うばかりに、大切なものを見落とし、最も小さい者の一人である子どもたちを拒絶したのです。
このような子どもの拒絶は、教会にも存在しないでしょうか? 子どもたちは長時間黙っていることができず、じっとしていることもできない存在です。礼拝の最中であっても声を出し、時には大声をあげて泣き出すこともあります。そのような子どもたちが礼拝の中で煩わしい存在として扱われていないでしょうか? 自分たちのことだけを考えて受け入れるべき小さな者の存在を忘れてはいないでしょうか? また、その小さな者たちが過去のある時代を生きているのではなく、今のこの時代を生きていることを見落とし、過去の価値観だけで判断し、今を生きる子どもたちの存在を無視していないでしょうか? 実際私たちの教会を見回すとき、そのような事態が起こっているのは事実です。特に子どもたちを煩わしい存在として、御言葉を通して与えられる祝福をいただこうとして子どもたちをつれてきている礼拝式の場において、子どもたちを拒絶し、閉め出してしまうということは往々にして起こっているのです。
弟子たちは子どもたちを拒絶したのですが、それに対して主イエス・キリストがその子どもたちを肯定し受け入れていることが、14〜16節に記されています。マルコ福音書は、主イエスを、子どもたちが近寄るのを妨げる者たちに対して憤られる存在として描き、主が子どもたちを祝福したことを明らかに告げています。この出来事は、主イエス・キリストの子どもたちに対する深い慈しみと暖かい眼差しを感じるものです。主は最も弱い者の一人である子どもを肯定し受け入れられ、そのお姿を弟子たちにお示しになりました。本来ならば弟子たちもキリストの名のために子どもたちを受け入れるべきであったのです。また、私たちもこのキリストが受け入れられた子どもたちを、キリストの名のために受け入れるべきであるのです。
しかし、ここで気を付けなければならないのは、主がこの子どもたちを受け入れられたのは、子どもたちへの愛情によるものだけではないということです。その愛情以上に、子どもたちを受け入れるべき理由があるのです。それは、「神の国はこのような者たちのものである」ということです。つまり言い換えれば、この子どもたちこそ、神の国に属する者であり神の国に受け入れられる者であるから、受け入れるのであるというのです。
この主イエス・キリストの御言葉は、誰が神の国で一番になれるかと神の国で少しでも良い地位をもらおうと議論しあった弟子たちを、鋭く突き刺すものです。彼らは子どもたちを拒絶するのではなく、その拒絶した子どもたちから、どの様にすればその祝福に与ることができるかを学ぶべきであると主に諭されているのです。
その学ぶべき事柄とは、この子どもたちが、両親に支えられなければ生きていくことができず、両親の支えを期待し、それをただ受け入れる者であるということ、また弟子たちの激しい拒絶から身を避けることも身を守ることもできないほど弱く小さな存在であるといことです。神の国の祝福にあずかる者は、小さく弱い幼子がその親に完全に頼るように、完全に神様に依存しキリストが与えてくださる神の国に入る特権を謙虚に受け入れる者でなければならないのです。
主はそのことを教えてくださった後、その子どもたちをみもとに呼び寄せ、抱き上げて祝福をお与え下さいました。弟子たちに拒絶された最も弱い存在である子どもたちは、今やキリストに受け入れられる者となったのです。それは、神の国の祝福が、人間の側の何らかの条件や功績を必要とせず、何の力もないような者に与えられること、その恵みと約束を明らかにしてくださっているのです。
このように明らかにキリストは子どもたちを受け入れ、神の国の民の一員として受け入れてくださっています。それゆえに、私たちの教会は、幼児洗礼を認めて、子どもたちに幼児洗礼を授け、契約共同体の一員として、つまりは神の国の一員として数え、キリストにあって人間の業に先行する神様の恵みの約束を継承していきます。そうである以上、私たちは、キリストが御自身のもとにその子どもたちを呼び寄せ、その子どもたちを愛して受け入れられたように、子どもたちを肯定し、受け入れなければなりません。またそのことを通して、教会は、何の力もない者をありのままの姿で完全に受け入れ、祝福を与えてくださった主の恵みを知るべきです。さらにはその事実を知ったなら、キリストがしてくださったように、私たちが今を生きるありのままの子どもたちを受け入れることが求められるのです。ですから、私たちは決して子どもたちを主が招いてくださっている礼拝の場から閉め出すのではなく、どの様な形であれ、その場にありのまま受け入れることをしなければならないのです。主が子どもを愛し受け入れてくださったように、私たちも子どもたちを教会の中に受け入れ、キリストの体なる教会の中に彼らを抱き、福音を語り育むことが求められるています。子どもをそのように受け入れることにより、キリストが弟子たちに子どもたちを用いて教訓的に教えられ、信仰的成長を与えられたように、キリストは私たちにもその子どもを通して、信仰的成長を与えてくださるのです。
しかし、主が受け入れてくださったように子どもたちをその教会の中に受け入れるべきであることを知るときに、あわせて私たちが気を付けなければならない事実があります。それは、子どもたちには罪がないなどと錯覚してはならないということです。そんなのは当たり前ではないかと思われるかもしれません。
このことと合わせて私たちが見落としがちなことは、子どもも死ぬという現実です。これも当たり前だと言われるかもしれません。子どもが死ぬと言いますと、明日死ぬかもしれないという現実に目を向けるのではなく、いずれ遠い将来、当然死ぬ日が来るでしょうという程度にしか考えられないのです。しかし、子どもであっても明日死ぬかもしれないし、死を覚悟するような病を負いながら日々を生活している子どもも多くいるのです。その子どもたちがもし死んだなら、どうなるのでしょうか。子どもには罪はないから天国に行くなどという人はいないでしょう。子どもであっても罪を持っており、その罪の現実から逃れることはできません。ですから必ず裁きを受け、永遠の刑罰を受けるのです。主が愛され、召してくださるその子どもたちも裁きを受けその刑罰を受けるべき存在であるのです。そのためにも、教会はその子どもたちを神の民の一員として受け入れ、そのふところに抱き育んでいかなければならないのです。その現実にどれだけの人が目を向け危機感を持っているでしょうか。
子どもは主が招き愛されて、祝福を与えてくださるような存在だから、滅びから免れるなどということではありません。神の民として招かれても、なお子どもたちが自らの口で主を自らの救い主と告白できるまで、教会は彼らを受け入れ養っていかなければならないのです。そして、そのための努力を決して惜しんではならないのです。それは人間の目先や小手先の技術的なことで子どもをいかに集めることができるかという方法論ではありません。主イエスがへりくだって私たちの一人となってくださったように、子どもたちの高さにまでへりくだり、今を生きる彼らと共に歩むことができるかどうかがまず第一に求められ問われています。子どもたちを抱き上げられる主は、子どもたちをいとおしみ、その高さにまでへりくだられ、心から彼らを受け入れられました。同じように、私たちも受け入れられています。私たちは子どもたちを上辺だけで受け入れるのではなく、キリストがその子どもたちになさったように、そして、あなたにもしてくださったように、へりくだって心からその者たちを受け入れることが大事なのです。教会もそのようにして小さな者たちを受け入れることが求められています。そして、主が招いてくださる子どもに福音が語られ、その幼い口でもって主を告白できるように熱心に祈り導いていくことが私たちに求められています。このことは、子どもを受け入れてくださったキリストから託されている教会の一つの使命です。その使命はこの子どもを招いてくださる主のみもとへ彼らを導くために与えられた使命であり、子どもの真の命に関わる重大な使命でなのです。
主は、子どもたちを心から受け入れる群に、大いなる励ましと慰めを与え、さらなる発展を与えてくださいます。そのような群となることができるように、もう一度私たちは私たちの群の姿を見直したいと思うのです。小さい者を受け入れることができる群、子どもたちに本当に福音を語ることのできる群となっているかを見直し、キリストから受けている大きな使命を果たそうではありませんか。
第10号 巻頭説教 「真理と命に至る道」 (2003年7月)
−ヨハネによる福音書14章1〜7節による説教− 木下裕也(豊明教会牧師)
ヨハネによる福音書14章6節で、主イエスはこう仰せになっています。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。
また、同じ14章の1節ではこう仰せになっています。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。
このふたつのみ言葉の密接なつながりということをまず覚えておきたいのです。
主イエスは、6節では、真理と命に生きる道は、わたしのほかにはないと言われます。真理はひとつであり、命もひとつです。そして真理も命も、神のもとにあります。そして私たちが神に近づき、真理と命にあずかる道も一本きりなのです。それがイエス・キリストという通路です。ほかの道はないのです。
そのことを前提としたうえで、1節で主イエスは弟子たちに、心を騒がせることなく、私を信じなさいと言われるのです。
私たちが主イエスを信じるとは、主イエスに身を委ねることです。ほかの誰でもなく、イエス・キリストを真理と命に至る、まことの神に至る、ただひとつの道であると思い定めて、このお方を私の人生の中心として選び取っていくことです。
そうである以上、信じるということは、あいまいなことではありません。本当かどうかわからないけれども、とりあえずこちらにも立ち寄ってみようか、といったたぐいのことではないのです。信じることは、その意味では決意することだと言ってもよいでしょうし、明確な意志表示であると言ってもよいのです。
そしてそのように主イエスを唯一の道として選びとる時に、私たちの人生は初めて腰のすわったものになります。背筋がしゃんとしてくるのです。主イエスを信じることによって私たちの心は定まり、命に中心が生まれ、そこには確かな人格をもった人間が生まれます。パウロは、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく造られた者なのだと語っていますが(コリントの信徒への手紙二5章17節)、信仰によって人はそのような人間としてまさに新しく生まれるのです。それゆえに信じるといういとなみは、私たちが人間であるための、また人間となるための、もっとも根源的な土台なのです。
ところでヨハネによる福音書のこの場面は、主イエスが十字架にかけられる前夜に、弟子たちに告別の説教を語っておられる場面なのです。すでに主イエスはイスカリオテのユダの裏切りとペトロの否認とを予告しておられます。弟子たちの心は騒いでいます。つまり恐れと不安にもまれています。
そうした中で主イエスは、心を騒がせるなとお命じになるのです。
心を騒がせるなとは、じっと静かにしていればよい、心を動かさなくともよいということではありません。また、ちりぢりに乱れた思いをただうまくしずめるということでもありません。
そうではなく、人に本当の命を与えてくださるお方は誰であるのか、人が真に信じ従っていくべきお方は誰であるのか、そのことを今こそ誤りなく見定め、そのひとりのお方を選び抜いていく勇気と決意をかためよということなのです。
私たちが今現に生きている社会は、割合にほどほど、ということや、仲を取りもつ、ということ、あるいは中庸ということが重んじられている社会です。けれども主イエスを信じるとは、おそらくはそのような態度からはもっとも遠いみ言葉ではないでしょうか。
ルカによる福音書には「レギオン」の記事がありますが(8章26節以下)、現代という時代のひとつの特徴は、人間の心も体もバラバラに引き裂かれているというところにあるとも言われるのです。現代人も社会のいろいろな場所に身を置き、いろいろな顔を持ち、けれどもそれぞれの場所にある慣習や価値観の板挟みとなり、またさまざまな不安や恐れや怒りをかかえて生きています。その点では、十字架を前に心を騒がせている弟子たちときわめて似た状況だとも言えるのではないでしょうか。
さらに現代社会には、世界のどの場所でも差別や偏見や争いがあります。そういう状況に自分自身もまた置かれているひとりひとりとして、私たちはやはりしっかりと確かめておきたいと思います。信仰とはそのような分裂を、あるいは矛盾や対立をうまくカバーし、調和させるための道具ではないのです。信仰とは勇気と決断のもとに選び取られるものです。そこではじめて、真理が見えてくるのです。命が見えてくるのです。
さて、主イエスは弟子たちに心を騒がせるなとお命じになりました。けれども12章27節ではこう仰せになっていました。
「今、わたしは心騒ぐ」
十字架の死を前にして、主イエスはおんみずから心騒がせておられたのです。心騒がせる弟子たちを前に、ご自分だけ超然としておられたのではなかったのです。人間の祈りやたたかい、恐れや不安を、手にとるように理解しておられたのです。と言うよりも、ご自身がそのただ中に身を置いておられたのです。
しかもなおかつ、心を騒がせるなと仰せになりました。なぜなら私たちが唯一の真理と命の道としてこのお方を選び取るなら、もはや究極的に心を騒がせる必要はないからです。
主イエスは私たちが心騒がせる者であることを知り抜いておられ、なおかつ私たちの住まいを用意していてくださるのです(1節)。私たちを受け入れ、私たちの命を肯定してくださるのです。そして、私たちに信仰によって歩む者としてくださるのです。
旧約の時代のイスラエルは荒れ野の旅路にあって、昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれて歩んだとあります(出エジプト記13章21−22節)。私たちの道はイエス・キリストです。このお方を通して、私たちは神の真理と命に至ります。イエス・キリストが指さされるその方向に、イエス・キリストにともなわれて歩むとき、私たちは父なる神に至り、真理と命に至るのです。
信仰とは単なる思いや憧れや感情といったものではありません。主イエスのみ言葉に聞き、またみ言葉に従う意志であり、また決意です。決意にともなって服従が生まれます。すなわち主イエスというお方を選び取るとき、私たちはおのずから主イエスのみ言葉に従うのです。そして、み言葉に聞き従う歩みを重ねていくことによって、私たちは真理を知り、命を知るに至るのです。真理と命に至るための秩序というものがあるのです。イエス・キリストという通路を通るということです。時間をかけながら、その道を忠実に歩んでいくということです。
宗教改革者カルヴァンは、教会の教育ということを重んじたと言われます。子どもたちを信仰告白に導くカテキズム教育も重視しましたし、大人たちを礼拝の説教やさまざまな学びの備えによって教育することにも意を用いました。
教会員たちは、それこそ召されるまで教育されました。母なる教会は信徒たちを生涯教え続けました。それはカルヴァンが、真理や命は一足飛びに、劇的な出来事によって一挙に獲得できるものではなく、道なる主イエスのみ言葉に養われ続けることによって与えられる賜物であることを知り抜いていたためだと思うのです。
主イエスが備えてくださった天の住まいに迎え入れられるときまで、私たちはこの地上で主イエスにつながり、主の教会につらなることによって、真理と命に至る唯一の道なるお方に従い、そのみ言葉に養われて歩み続けるのです。
第11号 巻頭説教 「神さまのつくられた人の目的」 (2003年10月)
−マタイによる福音書5章14〜16節による説教− アンドリュー・カリク(PCUS協力宣教師)
聖書(私訳)
ヨブ記24章13節 ある人々は光に反抗して、それに気付かず、その道にとどまってもいない。
詩編18編29節 あなたこそはわたしのランプに火をともすお方、
わたしの闇に輝いているのはわたしのヤーウエという神だ。
マタイによる福音書5章14〜16節
君たちが世の光だ。町は丘の上に立ったら、隠れられないね。
君たちはランプをつけたら、大きい籠の下に隠すかい?
まーさか。それを ランプスタンドの上にたて、家のすべてを照らすだろう。
同じように、君たちの光をみんなに照らして、君たちの生活をみんなに見せなさい。
そうすれば、みんなは、君たちの生活の行いを見て、天にいる父を賛美するだろう。
神さまは君をどのような人におつくりになったのだろうか? いろんな宗教では、わたしたちは自分自身を捨てなければなりません。わたしたちはある決まった人になったほうがよいと教えられます。わたしたちは個性的になってはだめというわけです。でもこういう教えは魂をなくさせますね。キリスト教はこのような宗教じゃないから、本当に感謝しています。もちろん、わたしたちは自分の罪をなくさないといけません。けれども、神さまにつくられている自分の個性をなくすことはぜったいだめです。
わたしが4歳ぐらいの時に、両親はアメリカのアリゾナ州から特別なランプを3台買いました。すべてサボテンで作られていました。サボテンで作られていたランプの笠には、それぞれ異なった絵が書いてありました。一つのランプの笠には、いろんな種類のサボテンが書いてありました。もう一つのランプの笠の絵は、砂漠の鳥とがらがら蛇のけんかの図でした。三番目のランプの笠の絵は、遠くから見えるロッキーマウンテンの景色でした。昼間、ランプが消えている時、そのランプの笠は暗かったから、わたしたちは、そのきれいな絵は、はっきりとは見えませんでした。でも、毎晩、ランプをつけると、それぞれ個性的なランプの絵が、わたしたちの部屋で輝きました。
今日は、「神さまは君をどのような人におつくりになったのか?」という話です。
みんなのうち、何人がモーセのような人となりたいですか? モーセは神の民の歴史の中で、もっともすばらしい預言者の一人ですね。ヨルダン川を分けたほかの預言者たちがいたけれども、モーセだけが大きい海を二つに分けましたね! もちろん、モーセのしたことじゃなくて、神さまのなさった御業なのだけれども、みんなはそれはもうわかるでしょう? モーセは神さまのためのすばらしい人でした。でも、彼は、また罪人でもあったのです。彼は人を殺して、砂漠に逃げました。でも聖書は、モーセがほかの人より謙そんであったと書いてあります。そして、神さまはモーセをすばらしいことのために用いました。ですから、モーセのような人になるのはすばらしいと思いませんか。
では、ダビデはどうでしょうか。みんなのうち、何人がダビデのような人になりたいですか? ダビデは歴史の中で、もっともすばらしい王様の一人ですね。うまく国を治めたほかの王様もいるでしょうが、ダビデだけが国の中心に神さまをおきました。ダビデは神さまのためのすばらしい人でした。でも、彼もまた、やはり罪人でもあったのですよね。彼は、ほかの男性の奥さんと罪を犯しました。そして彼はその男性を殺しました。聖書には、ダビデが自分の罪を悔い改めたと書いてあります。そして、神さまはダビデをすばらしいことのために用いられましたね。ですから、ダビデのような人になるのはすばらしいと思いませんか。
では、ペトロはどうでしょう。みんなのうち、何人がペトロのような人になりたいですか? ペトロは十二人の弟子たちのうちの最初の弟子でした。ペトロだけがイエス様と一緒に湖の上を歩きましたね。ペトロは神さまのためのすばらしい人でした。でも、彼もまた罪人だったのですね。イエス様が捕えられたとき、ペトロはイエス様を三回否定しました。そしてペトロは隠れてしまいました。でも、十字架のあとで、イエス様は、ペトロに三回、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛するか」と尋ねられました。イエス様はペトロに、そのたびに、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われて、ペトロを慰め、力づけましたね。そして、神さまはペトロをすばらしく用いられました。ですから、ペトロのような人になるのはすばらしいでしょう。
それでは、モーセはアブラハムと同じような人だったかな? いいえ。では、ダビデはモーセかアブラハムと同じような人だったかな? いいえ。ではペトロはどうかな? ペトロはモーセかアブラハムかダビデと同じような人だったかな? いいえ、みんなそれぞれ個性的でした。神さまが彼ら一人一人を照らされて、ランプの笠を通してその中心の光が見えるように、彼らを通して、一人一人の中の聖霊の光が見えました。同じ聖霊が彼ら一人一人を内側から光で照らしたのだけれども、ランプの笠の絵が違うように、みんなだいぶん違いましたね。
わたしたちも同じです。聖霊がわたしたちを救うためにわたしたちの内に入って、そうして、わたしたちの命を通して、ランプの笠の内側から、その中の聖霊という光が輝きます。わたしたちには、一人一人、まわりのみんなのために、それぞれの個性的な生活の絵が輝いています。わたしたちは一人一人個性的なランプの笠のようです。でも、わたしたちは、ランプの中からの光と同じように、聖霊が命の中で輝く時まで、だれにもわたしたちがつくられた目的が全然みえません。書かれている絵が見えないのです。ですから、君たちの個性的な命のランプの笠から、聖霊の光を輝かしなさい。
神さまは、ほなみ、みのり、るつこ、れいな、めぐみ、だいき、いくえ、ともみ、いずみ、せいや、まりな、のぶゆき、さつき、いのり、・・・・・の個性的な命の中から輝かれます。神さまは君をほかの人と同じようにはならさせたくはありません。神さまは君を、ただモーセやエリサベトやダビデやマリア、ペトロなどになってほしくないのです。聖霊は君たちをほかの人と同じようにはさせたくはないです。神さまは、君が自分自身のままで、いてほしいのです。ですから、ランプの中からの光と同じように、聖霊をあなたの命の中で輝かさせなさい。そうしたら、君は神さまのおつくりになった目的、そのものになります。
お祈りしましょう。
天にいる父なる神さま。わたしたちはみんな個性を持ってつくられたことに、本当に感謝しています。わたしたちはみんなあなたのために個性を持っているから、ありがとうございます。あなたの光で輝けるように、聖霊で満たしてください。主イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。
(Rev. Andrew Carrick)
(中部中会連合高校生会夏のキャンプ開会礼拝説教)
第12号 巻頭説教 「子どもと神の国」 (2004年1月)
−箴言1章7節、マルコによる福音書10章13〜16節による説教− 望月信(高蔵寺教会牧師)
今朝は、わたしたちの教会の花の日主日として礼拝をささげています。花の日と言いますのは、1868年にアメリカの教会で始まった行事と言われています。もともとは、6月の第二主日で、アメリカでは、学校の学年が変わる、年度の変わり目にあたります。子どもの一年の歩みが守られたことを主なる神に感謝する「子どもの日」として始められたようです。それが日本にも導入されて行われています。ただし日本では6月になりますと梅雨の時期になり、花が少ない季節になります。そのため、日本の教会では、5月に日付を動かして、行うことが少なくありません。私たちの教会も、今年は5月の今日を花の日として、子どもの成長を感謝し、またこれからも守り導いてくださるよう、祝福を祈り求める日として、礼拝を守ることにいたしました。そのことの一つとして、先ほどは、子どもの成長を感謝して讃美と祈りをささげるときを持ちました。
また、今日は、母の日でもあります。この母の日というのも、やはりもともとはアメリカの教会の行事であり、こちらは1910年頃に母親への感謝を表す日として定着し、アメリカでは1920年に国民の祝日に指定され、日本の教会でも母の日として行われるようになりました。この母の日のほうは、日本でも教会の行事というだけではなく、一般の社会的な行事として定着しているのは、皆さんもご存じの通りです。
今日は、ですから、母の日であり、花の日、子どもの日でもあります。主なる神が、子どもを健やかに養ってくださっていることを感謝し、また母親に日頃の労苦を感謝する、そのような豊かな主の日を過ごしたいと願っています。この機会に、子どもが与えられている恵みをあらためて考えてみることも大切でしょう。あるいは、母とされていること、父とされていることの意味や、家族が与えられていることの感謝をあらためて問い直す時とすることもよいでしょう。この花の日は、私たちが家族の存在を見つめ直すときなのであろうと思います。
今朝は、そのような花の日、子どもの日にあたって、聖書が私たちの家族のあり方として、何を求めているのか。そのことを、確認したいと思います。私たちキリスト者の家族のあるべき姿として、聖書は何を求めているのでしょうか。
今朝は、第一に、箴言の御言葉に耳を傾けました。この箴言という書物は、お読みいただくとすぐに分かることですが、いろいろな格言やことわざが集められている書物です。
私たちの教会では、この朝の礼拝の前に、教理教室という時間がありまして、今、そこでは、旧約聖書の書巻を一つ一つ取り扱っています。その教理教室で、ついこのあいだ、この箴言を取り扱ったばかりです。その備えのために、私はこの箴言をあらためて読み直しました。そうして、この箴言のねらい、目的がどこにあるのだろうか、この箴言を一つの書物として編集した人々は、いったい何を考えながら、この書物を作ったのだろうかと考えました。
それは、教育のためなのです。箴言の中では、繰り返し繰り返し、「わが子よ」と呼びかけられています。この箴言は、子どもを教育することを念頭に置いて編集されているのです。それは、ただ自分の子どもというだけではなく、その当時のイスラエルの民の子どもたち、若者たち、青年たちの教育です。当時、イスラエルにおいては、すでに学校教育のようなもの、子どもたちを一カ所に集めて、教師が教育していくということが行われていました。その教育の基本方針が示されているのが、この箴言です。
そして、今朝読みました御言葉は、そのかなめとも言うべき御言葉です。もう一度お読みいたします。「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」。言ってみるならば、これは、聖書の語る教育基本法なのです。教育の根本は何であるか、すなわち、「神を畏れること」です。「知恵の初め」とある「初め」とは、土台とか、かなめとか、あるいは「すべて」と翻訳されることもあります。要するに、主を畏れること、神を畏れることが、教育の初めであり、基本であり、目的です。つまり、すべてなのです。
それは、この筋、神を畏れるという筋が一本しっかりと通っていないならば、教育はできないですよ、子育てはできないですよ、ということです。さらには、人生そのものが分からなくなってしまう。そういうものです。神を畏れ敬うこと、この筋がしっかり通っているところでこそ、教育が成り立つし、家庭であるならば、父親として、また母親として、それぞれ役割を果たすことができる。箴言は、そう主張しており、これが、聖書の語る家庭の姿です。
この基本を明確にした上で、箴言はこう語ります。8節。「わが子よ、父の諭しに聞き従え。母の教えをおろそかにするな」。これは、父親の諭しを聞くようにと、母親の教えを軽んじないようにと、子どもに言い聞かせていく形を取っていますが、むしろ、親に対して語られている言葉として受け止める方がよいでしょう。すなわち、父親には子どもを諭す責任が与えられています。「諭す」というのは、何が正しいのか、何が間違っているのかを教えて、子どもの誤りを正していく、けじめをつけていくということです。母親も、それに協力して、子どもを教えていかなければなりません。「教え」というのは、「道しるべ」とか「羅針盤」という意味です。ですから、人生の道しるべ、人生の羅針盤を示していくということです。こうして、聖書は、親の基本的な務めは、何がよいことで何が間違っているのか、善悪を教えるということであり、また人生の道案内をすること、人生の歩むべき方向を指し示してやることであると語っています。これが親の務めなのです。
このような親の役割をきちんと果たすことができているのか、そのことをあらためて点検し、見直すということが、私たちに求められています。あるいは、逆に、親がこのような役割を果たして、自分を育ててくれたことに感謝する、そのことも、大切でしょう。私たちはみな、何らかのかたちで、親から何がよいことで、何が間違っているのかを学んできたのです。人生の中で、本当に大切なことが何であるのか、どのように人生を歩んでいけばよいのか、それを、私たちはみな、親を通して、それは、親の背中を通して、というべきかも知れません。親の生き方を見ることを通して、学んできたのです。その親に感謝をすることが求められていることは、言うまでもありません。
私自身も、親になりましてはじめて、親の労苦が少しずつ分かってきたように思います。その意味では、一生涯、親の背中を追いながら、私たちは生きていくのかも知れません。
しかし、親としての役割を果たすと言いましても、何が正しいのか、何が間違っているのかを教えるということ、それも、言葉で教えることはもちろん、生活を通して教えていくわけですから、これはたいへんなことです。人生の歩むべき方向を指し示すなど、自分にできるものなのだろうかとも思います。だからこそ大切なのが、「神を畏れ敬うこと」であると申し上げることができます。
主なる神を信じて、神を畏れ敬うことがないならば、そのところでは、私たちが教える何が正しいか、何が間違っているのかという基準は、たちまちのところ、人間的なものとなり、揺れ動くもの、方向の定まらないものになってしまうでしょう。私たち自身は、何が正しいのかという基準を持っていません。善悪の判断の基準は、私たち人間の内にはありません。それは、ただ主なる神にあるのみです。主なる神を畏れるときにこそ、私たちは、何が正しいのかを、正しく見極めることができます。そして、人生の目的は、神を喜び、ほめたたえることなのだ。そう教えることができるのです。私たちは、人生とは自分のためにある、自分が喜び楽しむことが人生だ、そういう価値観で生きている人たちで、周りを取り囲まれています。私たちも、しばしばそのような価値観に流されてしまいます。私たちは、ただ主なる神を畏れ敬い、神を礼拝するところでだけ、神を喜び、神と人とに仕えて生きる、自分のためではなく他者のために生きる、それが人生だという価値観に、堅く立ち続けることができます。
そして、もう一つ、今朝は、マルコによる福音書の御言葉にも耳を傾けました。主イエスが、子どもたちをご自身のみもとに招かれた御言葉です。主イエスのところに子どもたちをつれてきた親たち、「人々が子どもたちを連れてきた」とありますが、これは、当然、親たちです。親が子どもを祝福してもらおうと、主イエスのところに子どもを連れてきたのですが、その親たちを弟子たちが叱って追い払おうとした。ところが、主イエスは、その弟子たちに対してむしろ憤られて、子どもをそばに呼び寄せられたという出来事です。
主イエスは、このところで、「子どもたちをわたしのところに来させなさい」とおっしゃいました。そして、「神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃいました。これは、神の国は、このような子どもたちのものであるということです。主イエスは、神の支配、神の恵みの御国は子どもたちの国なのだ、そうおっしゃいました。これは、子どものように弱い、力無い、小さな者にこそ、神の国は与えられるということです。子どもというのは、無力さ、力のない、弱いものの代表です。ルカ福音書によりますと、ここで連れてこられた子どもたちの中には、乳飲み子が含まれていたようです。乳飲み子、赤ん坊です。親によって養われないならば、自分で生きることはまったくできない、そういう弱さを抱えた者たち、そのような者にこそ、神の国は与えられます。それは、彼らは、ただ恵みとして、神の国を受け取るからです。自分の能力によらず、自分の力によらず、お金に頼るのでもなく、ただ親を愛して、親を信頼して、生きていくのが幼子です。そのように、ただ神を愛して、神を信頼して、神の御国を恵みとして受け取る。信仰とは、裸の手であると言われます。こちらでは何も差し出すことのできるものはない。しかし、手を出してごらんと言われて、ただその言葉を信頼して、期待して手を出す。それが子どもです。
そして、今朝、注目したいのは、主イエスのもう一つの言葉、「はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」という言葉です。この言葉は、この言葉を聞く者たちを、子どもにする言葉、子どもの立場に立たせる言葉です。みな、子どもなのだ。そう言っているのです。子どもとは、決して年齢ではありません。主なる神のまなざしの中では、私たちみなが、子どもなのです。私たちも、子どもになって、裸の手、何も差し出すもののない手ではありますが、その裸の手を差し出せばよいというのです。主なる神に期待して、神を信頼して、神の国に入れられる恵みを受け取る。それが、私たちです。
ですから、この主イエスの言葉、「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」という御言葉は、私たちを、子どもの立場に立たせる、子どもとしての地平に立たせます。それは、どういうことかと言いますと、神の御前にあって、私たちには、親も子どももない、ということです。もちろん、親は親であり、子どもは子どもであり続けます。しかし、神の御国の恵みを受け取るということ、すなわち、信仰ということにおいて、親も子どももない、等しい地平に立つのです。等しい地平に立って、神を畏れ敬う。聖書は、そう教えています。
このことは、私たち、とりわけ親であるものにとって、何よりの福音でしょう。先ほど申しました、親の務めの重荷、親としての責任の重さから解き放たれるのです。もちろん、親の務めは、私たちの上にとどまり続けています。私たちは、その責任を放棄することはできません。しかし、その重荷は解き放たれる。すなわち、私たちは、肩肘張って、親として子どもに何が正しいかを教えなければならない、間違っていることは間違っていると諭さなければならないと言って、緊張して、張りつめている必要はないのです。親であれ、子どもであれ、等しく神の恵みによって生かされるのです。親は、ただ神を畏れ敬う生活、神を礼拝して、神を喜ぶ生活をすればよい。その生活が、子どもに何が正しいか、何が間違っているかを教えることになり、また神を喜ぶことこそが人生であると教えることになる。親は、子どもの上に立って教え諭すのではなく、子どもと共に生きていくのです。子どもと共に、子どもと足の歩幅を等しくして、ゆっくりと歩いていく、そのところで、子どもを神の御前に立たせることが起こっているのです。私たち一人一人が、神の御前に謙そんにされ、小さくされて、裸の手を差し出して生きている、ただ神を礼拝し、祈り、神に依り頼んで生きている、そのところで、子どもも裸の手を神に差し出すことを学ぶのです。神に祈り、依り頼むことを習うのです。
主イエス・キリストは、子どもを連れてきた親たちをしりぞけた弟子たちに憤りをあらわにされました。この「憤り」という言葉は、たいへん激しい感情を表す言葉です。激しく怒られた、そのような意味の言葉です。そこには、主なる神の激しい愛があります。主なる神は、私たちに神の恵みを与え、主なる神の祝福を与えることを願っておられる。激しくそのことを求めておられます。それは、主イエス・キリストがご自身を十字架にささげて、死んでくださるほどの激しい愛なのです。その十字架の愛によって、私たちに、この福音、神の恵みに生きる、神をほめたたえて、讃美して生きる人生が与えられています。ここにこそ、私たちの人生のすべてがあります。私たちは、あらためて、私たちの家庭をこの神にささげて、また私たちのこの教会、神の家族であるこの信仰共同体を神にささげたいと願います。キリストこそわが命である、そう言い表して、キリストのものとして生きることを喜びとする家族として、また信仰共同体として、共に歩んで参りましょう。
(2003年5月4日、高蔵寺教会主日礼拝説教)
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