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第13号 巻頭説教 「侮るな、天使たちの働きを」 (2004年4月)
名古屋岩の上伝道所主催 日曜学校教師研修会 開会礼拝(2003年6月29日)
マタイによる福音書 第18章10節 相馬伸郎(名古屋岩の上伝道所宣教教師)
「彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」この御言葉は、とても不思議な言葉ではないかと思います。四福音書の中では、マタイによる福音書だけがこの御言葉を記しました。おそらく私どもは、「天使」とか「御使い」とか言われても、ほとんど実感が湧かないように思います。丁寧に説明する暇がありませんが、私どもの教理においては、ローマ・カトリック教会のように、天使論を大きな主題として掲げて、いわゆる「守護天使」の存在について語ることはほとんどありません。これは、正しいことであると信じます。ところが、新約聖書には、天使、御使いが何回も登場します。特に、主イエス・キリストの降誕の物語と再臨の教えのなかで集中して出てまいります。確かに、ここで主イエスが仰せられた御言葉から、先ほどの守護の天使の存在と働きを確証することはできないと思います。しかし、主はここで、子どもたちのためには、天使たちがいつも天の父なる神の御顔を仰ぎ見る仕事をしていると、はっきり告げておられるのです。子どもたちには特別に天使が働きかけてくださっていると仰せられたのです。
これは、私自身が実感していることでありますが、この主イエス・キリストの御言葉は、教理としての表現、言葉ではなく、詩の言葉、詩的な表現として、子どもたちの現実について、鋭く切り取るようにして説明してくださっているように思います。たとえば、乳幼児を見ておりますと、彼らがしばしば現実の世界とファンタジー、夢の世界とを行ったり来たりしながら生きている、現実と夢とを重ねながら、二つの世界を同時に生きている姿をほほえましく認めることができます。幼児たちにとって、夢のなかで起こった現実とこの覚めた現実とをきちんと識別することは困難なようです。たとえば彼らは、我が家で飼っていますウサギを自分の友達であるかのようにして接することができます。それだけに、いきなり噛まれたりするとびっくりして、傷つきます。ウサギが生き物であると言うことがどのようなことなのか、どこまで分かっているのか心もとないようなそぶりをしてみせることもあります。あるいは、昆虫でも花でも自分と同じように生きていると見えるようなそぶりをも見せるときもあります。サンタクロースもイエスさまも同時に受け入れるのです。このような幼児の心、精神の不思議さは、まさに子らに働く天使の働きではないのかとすら思えてしまいます。ただし、この天使の働きとは、主イエス・キリストの父なる神を仰ぎ見ること、つまり、礼拝することであると限定されていることを忘れてはなりません。
さて、私ども日曜学校教師は、このような幼児の前にも、教師として立たされています。そのような私どもは、彼らをどのような眼差しをもって見つめるべきでしょうか。どのように見るのか。これこそ、教師の姿勢、その奉仕の急所となります。万一、教師が「幼児たちにはまだ福音は理解できない、福音の言葉は彼らにはまだ難しい。だから、お絵かきや工作、お遊びをしていれば分級は良い」と考えるなら、これはまことに大きな損失となると思います。もったいないと思います。
「彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」私どもは、幼子のためには、天使がいつも彼らに代わって神を仰いでいると言うことを信じたいのです。つまり、それほどまでに、神に重んじられている存在として理解したいのです。信仰を理解し、受け入れることにおいて大人よりも容易な存在として祝福されている存在として信じたいのです。信じるべきです。
それならそのような私共は、そこで何をするのか、何をすべきか。もちろん、お遊びや工作などを否定するのではありません。しかし、かれらにこそ、神の存在を告げ、福音の物語を語り、祈りを教えるべきです。共に祈ることができるのです。共に祈るべきであります。
先日、私は、大変すばらしい光景を教会で、朝の祈祷会で見ることができました。いつもは、お母さんに連れられて、3歳の女の子一人だけが出席しています。お祈りのときには、母子室でおもちゃで遊んだりして過ごします。しかし、その日は、2歳の女の子のお友だちが来ました。聖書の解き明かしが済んで、お母さんたちが二つに別れてお祈りし始めると、その時、その子たちが、ガラス越しに見える、お母さんたちがしている祈り会の真似をして、自分たちもお祈り会をし始めたのです。私は、ほとんど初めて、教会員のお祈りの途中に、子どもたちが何か言っているのが聞こえましたので、そしてすぐにそれがお祈りであることがわかりましたので、私は、その部屋をのぞいてしまいました。彼女たちは、同じ言葉を何度も何度も繰り返しながら延々とお祈りしているのです。
さて、私共は彼女たちの行為をどのように評価できるのでしょうか。これは、お祈りの真似事なのでしょうか。違うと思います。これは、立派なお祈りです。つまり、聖霊の働きなのです。聖霊なる御神のお働きによらなければ、祈りを祈る事はできません。これは彼女たちに天使が働いたからではなく、聖霊が注がれたから祈っているのです。しかし、この出来事は、まさに主イエスの御言葉、「彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」と言う御言葉によって、開かれ、解き明かしえるものだと思います。
この御言葉は、特に私ども日曜学校教師に、子どもたちへの伝道へと、心をかきたてる御言葉の一つではないでしょうか。乳幼児は、諸霊、精霊を信じます。子どもたちは精霊や夢の世界と現実とをオーバーラップさせて生きることができるのです。もちろん、言うまでもなく、それは、聖書の信仰とは異質です。しかし、私どもは経験しております。子どもたち、乳幼児に「神さま」と教えると、「神さまなんていやしない」と反発されることはありません。「神をこの目で見るまでは、触るまでは決して信じはしない」と主張する幼子を見たためしがありません。これは、幼子への神の祝福ではないでしょうか。これを、万一にも、賢い大人たちが「幼子は知的に劣っているから、まだ人生の深いところなど分からないから、宗教教育を施す意味がない、ほどこすべきでない」などと言うのであれば、それこそ、まったく見当違い、愚かな事であります。
主イエス・キリストは、仰いました。「彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」だからこそ、福音を教える必要があり、実ることは容易なのです。ただしそれは、子らに、「あなたには守護天使がいつも守ってくださっているのですよ」などと教えなければならないということではありません。私どもが伝えるべきは、彼らを愛しておられる主イエスであります。
主イエスは、子どもたちを私のところに来させなさいと命じられました。主イエスはご存知です。幼子を愛しておられる天の父がおられることを。主イエス・キリスト御自身も幼子を愛しておられるのであります。だから、私どもは、子どもを愛するイエスさまを伝えるのです。イエスさまがどんな怖い力よりも強い神さまであるかを伝えるのです。イエスさまこそ、大人も子どもも従うべき神であることを伝えるのです。神の御子イエスさまは、かつて赤ちゃんでもあって、自分達と同じように過ごされたことも教えることができるのです。そのようにして主イエス・キリストへの愛を育むことができるのです。子どもたちと一緒に、またそれは天使たちと一緒になって礼拝することをも意味するでしょうが、彼らとお祈りする、礼拝するのです。このようにして、イエスさまを好きになる子に育てる、これが、幼子への伝道、教育であります。
先週、私どもの教会で一人の幼子が洗礼を受け、教会員、未陪餐会員となりました。私どもは、教会員の子を「契約の子」と呼びます。私共は、親の信仰告白と誓約に基いて、その子らに洗礼を施します。これは、どれほどすばらしい聖書的な伝統であるかを思います。しかし実は私は、かつて、幼児洗礼などは、聖書的ではないと確信いたしておりました。幼児洗礼は、教会をなし崩しにし、真の信仰に立つ教会を壊してしまう悪しき教会の伝統であると考えていたのです。ところが、今日、改革・長老教会の伝統を担う欧米の教会のなかで、幼児洗礼を否定する人々も出てまいりました。しかし、この日本の私どもにとって、ますます、幼児洗礼を施してきた教会の伝統に固く踏みとどまりたいと思います。それは、本人はもとより、私ども親、日曜学校教師にとってどれだけ幸いなしるしであるかを思うからであります。洗礼によって、はっきりと親と教会は、契約の子を神に愛されている子として見ることができるからです。もっと、はっきりと言わねばなりません。契約の子を神の子と見ることができるからです。何故なら、彼らは洗礼を施されているからです。洗礼とは、主イエス・キリストと一つに結ばれる礼典であります。幼児洗礼も、信仰告白に基く洗礼も同じ一つの洗礼であります。恵みの力において、まったく遜色がありません。神の子とする洗礼であります。どんなに親の目に適わない歩みをしている子であっても、どんなに親の目から神の子らしからぬ言動を繰り返していても、神が必ず地上において神の子としての実質を現してくださる、信仰を告白する喜び、信仰に生きる使命を覚醒してくださる、呼び覚まして下さることを信じることができるのです。だからこそ、私どもは、乳幼児を、幼子を大切にすることもできるようになるのです。正しく重んじる道が開かれるのです。一個の人格、人間として、神の子として見ることができるからです。
私どもに絶えず問われるのは、契約の子を、そればかりか、神が日曜学校に送ってくださった地域の子らを、神の子として選ばれた子として信じてあげることです。未だ信じることもない、信仰を言い表していない子のためにも、天使が礼拝しているという肉眼では見えない事実を、私共が、信仰によって認めてあげるのです。そして、信じる私どもだからこそ、彼らに必ず信仰教育を施します。主イエス・キリストを語ります。そうせざるを得ないはずです。私どもは、自分で信仰の選択を判断できる力がついたときから信仰の教育をするべきであるというような議論にくみしません。私どもは、信仰を与えられた光栄とその責任をもって、自分の子に、地域の子らに福音を伝えるのです。
「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」神は、どれほど小さな子らを、重んじておられるのか、そのために天使すら用いてくださるまでに関心を注いでおられるのかを見ます。私共は、天上におけるこの幻、子らのために、子らに代わって、天使が礼拝している幻を見たいと思います。それは、父なる神がどれほど子どもの祈り、礼拝を待っておられるか、喜んでおられるかを信じるためにです。教師の務めがどれほど尊いものであるかをいよいよ悟るためにです。主イエス・キリストがこのように命じておられる限り、神が召してくださったこの業が決して空しくないことを、必ず豊かに実ることを信じて、教会の日曜学校の業に心新たに奉仕してまいりたい、そう願います。祈祷
子どもたちを愛しておられる主イエス・キリストの父なる御神。その愛を私どもにも豊かに与えて下さい。教会に来ている子らを、あなたが救いへと約束された子、神の子として見る眼差しを豊かに与えて下さい。そのために、自分自身があなたの子として、あなたの幼子として、御言葉を受け入れ、教えられ、養われ続けることができますように。そのようにして、彼らよりわずかばかり前に御言葉の恵みに与った者としての御言葉の教師として立つ事ができますように。この研修会をそのための研鑽のひと時として用いて下さい。 アーメン。
第14号 巻頭説教 「荒れ野の泉はある」 (2004年7月)
−創世記16章6b〜14節による説教− 橋谷英徳(伊丹教会牧師)
サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた。主の御使いが荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとりで彼女と出会って、言った。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」「女主人サライのもとから逃げているところです」と答えると、
主の御使いは言った。
「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」
主の御使いは更に言った。
「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」
主の御使いはまた言った。
「今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。
その子をイシュマエルと名付けなさい
主があなたの悩みをお聞きになられたから。
彼は野生のろばのような人になる。彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので
人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす。」
ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と言った。それは、彼女が、「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」と言ったからである。そこで、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれるようになった。それはカデシュとベレドの間にある。
(創世記16章6b〜14節)
日曜学校教案誌の巻頭の説教をすることが、私に与えられた課題である。教案誌である以上、この説教の聴き手は、何よりも日曜学校の教師たちであろうかと思う。そして、説教である以上、今ここで、語られる神のみことばを取り次ぐことが私に与えられた課題となる。
日曜学校の教師の務めは伝えるということである。伝えるのは神のみことばでありキリストの福音である。これは幸いな務めである。
しかし、この務めを果たす者が、いつも悩み苦しむのは、この神のみことばを伝えるということも確かなことであろう。
「明日は日曜日、子供たちに説教をする。けれども、まだ何を伝えたら良いのかがまだわからない、聞こえてこない、見えてこない。どうしたらよいのだろうか?」
日曜学校の教師であるならば、誰でもこのような経験があるのではないであろうか。
神のことばを伝えるというのは楽なことではない。日曜学校の教師の苦しみは他の教会員よりも朝早く起きて教会にやって来なければならないということではない。そういう労苦も確かにあるであろうが、子供たちに、神のみことばを伝えるということにおいて悩み苦しむのだ。しかし、この苦しみは決して、耐えられない苦しみではないし、報いのない苦しみでもない。この苦しみの先には恵みがやってくるからだ。喜びがそこに必ずやって来る。私は日曜学校の教師が喜びの務めであることを信じて疑わない。
伝えるためにまず何よりも必要なことは、言うまでもなく私たち自身が御言葉、福音にあずかることである。御言葉の力、慰めにあずかることである。そこではじめて伝えるということがなされる。御言葉に聴くことに失望してはならない。あきらめてはならない。御言葉は必ず与えられるからだ。そして、御言葉は空しく地に落ちてしまうことはない。
今日、与えられたのは創世記16章の御言葉である。
私たちは、ここに途方に暮れ、力尽き、全くかがみ込んでしまっている一人の人を見いだすことができる。その名はハガル。この女はエジプトの奴隷女であった。彼女はまだ少女であった頃、アブラハムの一族のところに、エジプトの王ファロオの命令によって、連れて来られたのであろう(創世記12章16節)。こうしてハガルは、アブラハムの妻、サライに従順に仕える侍女となった。しかし、成人したある日、女主人の命令でその夫アブラハムのもとに入るように命じられる。主人の側からすればさまざまな理由があったことであろう。しかし、ハガルからすれば、非人間的な仕打ち以外のなにものでもない。こどものいない夫婦の身代わりになり、身ごもらされる。そして、いざ身ごもると今度は手のひらを返したように、ひどい仕打ちを受けることになった。こんな苦しみに遭うぐらいなら・・・。このような思いが彼女をアブラハムの家から飛び出させた。着の身着のまま彼女は、せっぱつまった思いで荒れ野を歩いて行く。身重のからだをかかえて。彼女はおそらく生まれ故郷のエジプトの方向に歩きだした。やがて彼女は荒れ野の泉のほとりで休息する。力尽きていたに違いない。途方に暮れていたに違いない。しかし、彼女はそこで、荒れ野の泉で主と出会った、主の御言葉を与えられたというのである。
御言葉は私たちの生きる世界、人生をしばしば荒れ野に喩える。荒れ野そこは人が生きるのに適さないところである。命の危険にさらされる場所でもある。しかし、また同時に、荒れ野、そこは不思議にも、神との出会いが起こされる場所でもある。ここではその荒れ野に泉があったというのである。砂漠の中にそこだけ緑が生い茂ったオアシスである。私たちの世界にはそういう場所があると聖書は語っている。全く見捨てられた中に私たちは生きているのではない。荒れ野の中に泉がある。それは私たちがいつも覚えておいてよいことである。万策尽き、途方に暮れ、力尽きることがある。けれども、不思議にも御言葉はそのようなところでこそ、いつも与えられる。
御使いは、荒れ野の泉のほとりに屈み込んでいるハガルを発見する。そして、このハガルに語りかけて言った。「ハガルよ。あなたは、どこから来て、どこへ行こうとしているのか。」御使い、それは神のことばを伝えるメッセンジャーである。それならば、このとき、御使いがハガルに語りかけたことばは神のことばである。
ハガルに語りかけられたこの神のことばは不思議な語りかけである。出てきた場所を問い、これから行く先を問う。しかし、ただそれだけのことではない。
ある人はこのみことばから、「哲学の究極的使命は、人間がどこから来たのか。またどこへ行くのかという問いに答えようとするものである」というカントのことばを思い起こすと言う。しかし、この御言葉の問いは哲学の問いとは異なるところがある。哲学が問題にするのは「人間」であるが、御言葉は「あなた」と問いかける。哲学が問題にするのは、一般的普遍的な真理である。けれども、御言葉はあなたと二人称で問いかける。
創世記はすでにその最初にこの二人称を用いている。
「あなたはどこにいるのか。」(3章9節)
「あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」これは現代的な問いでもある。自分がどこから来たものなのか、どこへ行くのかわからないのが現代に生きる人間の姿でもある。
しかし、この問いかけは、問いかけるものを苦しめ、ただ悩ませるような問いかけではない。この問いを投げかけられるものを孤独のままにしてしまうような問いかけではない。この問いかけは、力ある慰めをもたらした問いかけなのである。そのことは続く対話から明らかになる。
「女主人サライのもとから逃げているところです。」
すると主の御使いは言う。
「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」
この御使いの単刀直入なことばはどういう意味であろうか。ただ単に元いたところに戻れ、元の鞘に収まれということではないであろう。
ハガルはもともとはエジプトの少女であったが、アブラハムの家に連れて来られて育てられた。だとすれば、その彼女がエジプトの神々を信じ続けていたとは考えられない。彼女はすでにアブラハムの神、主なる神、ヤーウエを信じるようになっていたに違いない。だとすれば、御使いの勧めは、主なる神のもとに帰れということなのである。
この荒れ野の泉における経験は、彼女に自分が何者なのかということを気づかせることになった。自分が神のものであることを彼女はこのことによって気づかされたのだ。御言葉はそれを聞くものに、自分がいったいどういう存在であるのかを新しく見いだすことをもたらす。
ハガルは自分がすでに神のものであること、つまり、どれほど尊い存在であるのかをこの時まで気づいていなかった。いや少なくとも、この時は忘れていた。命を奪われるような危険の中で、自分の人生の歩みが違った有様で、新しく見えてきたのである。確かにそれは表面的には、飛び出してきたアブラハムの家に戻ることであったろう。けれども、この時、ハガルはまるで全く新しい人になって再び立ち上がる。
御使いは、ハガルが神のものであることを明らかにするだけではない。御使いの語った主のことばによってハガルは自分の人生に明るい見通しを持つようになる。彼女は、「あなたこそエル・ロイです」(13)と喜びつつその信仰の告白をするに至る。御使いの語ったみことばは、彼女の人生に明るい光を当てた。彼女は自分の人生に明るい見通しを持つことはできなくなっていた。彼女には行く当ても進むべき道も見えなかった。けれども、ここで彼女は明るい見通しを持つものに変化している。いや変化させている。これが御言葉の恵みである。「み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。」(詩編119:130口語訳)御言葉は、それを聞く人の人生に光を当てる。言い換えると、神の救いの歴史の中で自分の人生を新しく見ることをもたらすのだ。神の救いの歴史の中に私たちの歩みが位置づけられる。ある人は、聖書の言葉は「自分の小さな物語にではなく、神の救いの大いなる物語」の中に私たちを導く働きをすると語っているが、まさにそのとおりだ。
「あなたはどこから来て、どこに行くのか」御言葉は今、荒れ野の時代に生きる私たちにも問いかけている。
あなたも神のもの、いやキリストのものである。なぜなら、キリストが私たちの罪のために十字架におかかりになり、復活なさったからだ。そして、あなたはあなたの人生の行く手は、このキリストによって、その髪の毛の一本もその許しがなければ地に落ちることもないほどに守られているのだ(ハイデルベルク信仰問答問1)。
この御言葉はこの唯一の慰めのもとに私たちを立たせてくれる。
この御言葉の慰めにあずかるところで、日曜学校の教師である私たちがこどもたちへの説教と牧会とによって、何を伝えなければならないのかも見えてくる。
私たちの目の前にいる子供たちもまた自己の本当の価値を見いだせないままに屈み込んでしまってはいないであろうか。自己の人生の行く手に明るい見通しを持つことができないままでいるのではないだろうか。御言葉が真実に伝達されることによって、諸教会の日曜学校が荒れ野の泉になることができれば幸いである。主はきっと私たちを用いてくださるに違いない。
第15号 巻頭説教 「求める者に聖霊を」 (2004年10月)
−ルカによる福音書11章9〜13節による説教− 三川栄二(稲毛海岸教会牧師)
そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。
(ルカによる福音書11章9〜13節)
ここでは、「誰でも求める者は受け」ることが約束されています。祈りは必ず聞き届けられる、そのような信頼の中で、神に祈ることが求められているのです。しかしそこでどうしても尋ねずにはおれないことがあります。それは本当に祈りは聞かれるかということです。実際のところ、むしろ聞かれない祈りの方が多いのではないか、熱心に祈り求めたが、神は応えてくださらなかった。それが私たちの正直な気持ではないでしょうか。特に人生の大切な節目、危機に陥ったとき、問題に直面したときに祈る。そういった祈りに対して、願ったこととは違うことがよくある、あるいは願った道とは違う道が開かれていくことがあるのです。そうした祈りの積み重ねの中で、私たちは祈りに対して不信感を抱き、結局祈っても無駄ではないかと祈りに躓づいてしまうのです。
そんな私たちの祈りの不信の中に主はこの言葉を投げ込まれるのです。ここでいう魚とは海蛇のように細長い魚で、ウナギみたいなもの、またさそりは丸めると卵のようになることから、どちらも一見すると区別がつかない似たもの同士の組み合わせであり、しかも一方は有益なのに対して、他方は有害、危険なものという対比になっています。「あなたがたは子供がウナギを食べたいというのに、形が似ているからといって毒蛇を与えるか。卵が食べたいというのに、似ているからといってさそりを与えるか」と主は問うておられるのです。そんなことはありえない。不完全な人間の父親でさえそうならば、まして完全な天の父は、そんなことをするはずがない、むしろもっと良いものをくださり、最上のことをしてくださるはずだと主は語っておられるのです。その前提には「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイ6章8節)という、父としての神への信頼があります。不完全な人間の父親でさえ、自分の子供の必要や好みといったことを不十分ながらも知っている。そして必要な物を、必要な時に、必要なだけ与えるはずだからです。
しかし同時に、本当に必要な物を親として見極めて、たとえそれを子供が欲していなくても、子供の願いとは違っていたとしても、必要であれば与えるのです。子供が欲しがるといって、むやみにその要求をかなえることはありません。本当にその子にとってふさわしい物がどうかを、吟味して与えます。また与えるのにふさわしい時があり、欲しい時すぐに与えれば良いわけではありません。ふさわしい与え方があります。ですから親であれば、不完全ながらも子供の要求に対して、それをよく吟味し、時と方法を考えて与えます。親はちゃんと子供の要求も聞いて、しかも本当の必要を知った上で、必要な物を与えます。まして完全な父である神が、私たちにそうしてくださらないはずがあるでしょうか。私たちの父は私たち以上に私たち自身のことを良くご存じで、最もふさわしいものを私たちにしてくださる方なのです。
さてしかし、このように神が、私たちのすべてを私たち以上に知っておられるなら、それでもなおなぜ神に祈り求める必要があるのでしょうか。主御自身、そのことを明言された後で、すぐにつづけて「だからこう祈れ」と主の祈りを教えてくださったのでした。ここで主は、私たちが自分の子供に良い物を与えることを知っていると語られた後、「まして天の父は求める者に」と言われました。天の父は、あくまでも「求める者」に必要を満たしてくださるのです。人間の親でさえ、なんでもかんでもそれを子供が欲する前に与えることはしません。そうすれば子供の自主性が育たず、なんでも人にやってもらわなければならない人間となってしまうからです。自立した人間とならないのです。だから親は自分の必要や要求を、子供に自分の口で言わせ、自分から求めさせるのです。私たちの祈りも、神が私たちの必要をご存じないからではなく、私たちの訓練のため、成長のために与えられたものです。
私たちの願いの中には、気まぐれで、一時的、衝動的なものがあります。神がそれをすぐ与えず、あえて私たちに求めさせるのは、私たちが祈り求めていく中で、自分の要求を自分自身で良く知り、吟味するようになるためです。本当に欲しい物ならその要求は長続きするでしょうが、そうでなければいつの間にか願わなくなります。私たちの必要を知っておられる神に、あえて祈らせるのは、私たちが自分にとって何が本当に必要で、求めなければならないものであるかを、自分自身で吟味させるためです。祈りは信仰の修練の場であり、訓練です。そしてこの祈りの中でこそ、私たちは自分の信じ頼る神が生きて働く方であることを一層良く知り、神への信頼を深めていくのです。祈りとは、生けるまことの神に出会い、神を知る場です。こうして私たちの信仰は、祈りによって成長し、深められていくのです。
さて、この祈りにおいて、私たちが求めなければならないことは一体何であるか、そのことを主は次のように語られました。「求める者に聖霊を与えてくださる。」天の父が私たちに与えてくださる「良い物」とは、他でもない「聖霊」なのです。この問題、あの事柄ではなく、神御自身を求めることこそ、私たちの祈りの目標であり、信仰の目標なのです。恵みそのものでありたもう神を求めて与えられることこそ、私たちの究極的な祈りなのです。そして聖霊とは、この私たちと神御自身とを結びつける「絆」なのです。そしてこの生ける神を求めさせ、祈らせ、至らせ、神との生ける交わりへと引き入れてくださるのが、聖霊に他なりません。ですから私たちが祈り求めるべき第一は、このようにして恵みの源である神へと私たちを向かわせ結びつける、聖霊御自身なのです。この聖霊を受けることで、私たちは本当に必要なことを神に祈り求める者となり、そして必要な物をいただくのです。祈りは、私たちの必要のすべてを知っておられる神に、祈ることであり、その神は必要のすべてを与えてくださる方であることを信じつつ、与えられることを確信しつつ、求めることなのです。そして神は、信じて祈る私たちに、聖霊をくださるのです。
日曜学校教師として苦闘しつつ、悩みつつ奉仕している私たちです。明日のクラスを前にして、どのようにしたら良いのかと頭を抱え込んでしまう私たちです。であればこそ、私たちに豊かに聖霊が注がれ、豊かに満たしていただくことができるように、いよいよ祈り求めていきたいと思います。なぜなら聖霊こそ、私たちの力と知恵の源なのですから。
第16号 巻頭説教 「信仰の継承」 (2005年1月)
−出エジプト記12章21〜28節による説教− 辻 幸宏(大垣伝道所協力牧師)
モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。
「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。
あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」
民はひれ伏して礼拝した。それから、イスラエルの人々は帰って行き、主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。
(出エジプト記12章21〜28節)
今年も1月17日を迎えます。あの神戸の大震災からちょうど10年です。私は、神戸で生まれ育ち、そして当時も神学生として神戸にいました。その街が地震で壊滅状態に陥り、その後まったく新しい街へと生まれ変わりました。あの時の衝撃と苦しみを今も忘れることは出来ません。あれだけ多くの人々の命が奪われた中、主は私を生かして下さいました。そして今なお日々の命をお与え下さっています。この思いは、各地で地震が発生する度に、思い出されます。
しかしながら、10年という年月は、人の心を風化させていきます。少し前までは「十年一昔」と語られていましたが、現在では「五年一昔」と呼ばれているのではないでしょうか。時代の変化は激しく、自らの肌で味わった体験ですら、風化し、今では、日々の生活の中では、何もなかったごとく忘れているのも事実です。
このように時代の移り変わりが早くなり、過去にあった喜びも悲しみ・苦しみも、忘れてしまうことが早くなっているのかも知れません。そこには、様々な要因が考えられるでしょう。パソコンやインターネットが普及し、世界中の情報がすぐに手に入るようになったこともその一因でしょう。また、今後の不安が叫ばれる中にあっても、多くの人々は、生活上に必要なものが事足りているばかりか、欲しいと思うものはすぐに手に入る環境にあることもあります。そうしたことから、一つの物事に対する思い入れが薄くなり、次から次へと新しいものを求め、古いものが忘れ去られていくのです。またアフガニスタンやイラク、パレスチナなどで繰り返し戦闘が行われながらも、劇場化された報道のため、ゲーム感覚にしか映らず、自らの命の尊さを知ることも出来ず、今報道されたことすら聞き流してしまう状況にあります。その他にも様々な要因はあるでしょう。
そうした中、私たちに与えられている恵みとしての信仰を、いかに自らが保ち続け、さらに後の世代に継承しくかを、私たちは考えていかなければなりません。
イスラエルは、430年間(出エジプト12:40)、エジプトに滞在しました。そして、ヨセフの功績が忘れ去られた時代になると、イスラエルの人々は、奴隷として、強制的に重労働が課せられていきました(同1:10-11)。そしていつしか、イスラエルの人々にとっては、このことが当然の運命であり、そこから救い出されることなどないと思うようになっていたのです。それは裏をかえせば、主なる神様がアブラハムに語られた約束を忘れていたことを意味します。つまりイスラエルの民が忘れていたことは、「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。」(創世記15:13-14)と語られていた主の命令です。
しかしながら主なる神様は、500年近く前の約束を忘れられることなく、イスラエルにモーセをお立て下さいました(出エジプト3章)。そしてモーセを通して、エジプトとファラオに対して、9つの災いをおこない、さらに最後の災い、つまりエジプトの全ての初子が死を遂げようとするまさにこの時、イスラエルをエジプトから救い出して下さろうとしているのです。主は、この時、主がイスラエルの家に災いがもたらされないように、イスラエルに対して、過越の犠牲と諸儀式を行うように求められました(出エジプト12:7-11)。そしてイスラエルはこの時、奴隷から解放され、約束の地カナンに向かって歩み始めていくこととなります。イスラエルの民にとって、忘れることの出来ない喜びであったはずです。主が共におられ、主は、お働きになられ、約束を忘れることなく果たして下さるお方であることが、イスラエルにははっきりと示されたのです。
そして当時の人々にとっては、一生忘れることの出来ないような大きな出来事を、忘れないように、そして同時に後々の子孫たちも語り継ぎ、受け継ぐものとして、過越の祭りとして、毎年毎年、祝うように、主はお求めになられたのです(12:24-25)。それは、あの感動、あの喜びを忘れたとしても、日常の生活の中では見ることのないようなしるしである鴨居と入り口の日本の柱の鉢に塗られた血を見ることにより、鮮明に、神様がイスラエルをエジプトから救って下さったことを思い起こすことが出来るようにして下さった、神様の愛から出てきた祭りの定めだったのです。
しかし儀式を守るだけでは、その形だけが残るのであり、主がお与え下さった救いの恵みは忘れ去られます。そして、形だけ守られる儀式には、主が救って下さった喜びも感謝もなくなっていくのです。つまり、それと同時に、主なる神様に対する信仰も忘れ去られ、また捨て去られていくのです。
だからこそ、主は「また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」(12:26-27a)語られ、人々の中に起こる風化・世代が変化することによって起こる形式化に対して、警鐘を鳴らしておられるのです。
主がお語り下さった約束も、主がお与え下さった救いの恵みも、時代が経ち、世代が交代してことによって、忘れ去られていくのです。そして信仰もまた、忘れ去られていくのです。私たちはまさにその最中に立たされているのです。日本キリスト改革派教会は、戦後1946年4月に創立して以来、来年で60年を迎えます。創立当初の牧師や信徒たちは、まさに信仰の戦いを戦って来られ、そこから教会を立て上げて行かれました。そして創立20年(1966年)位までに信仰を持たれた方々は、その信仰の戦いを常に教えられ、そして自らも戦争が終え、主がお与え下さった平和の恵みを感じつつ、信仰を持たれ、また信仰の養いを受けてきたことでしょう。
しかし創立60年が経とうとしている現在、それらの方々が神様の御許に呼び集められ、また一線からの引退の時期を迎え、世代が受け継がれていこうとしています。正直言いまして、改革派教会全体を見渡した時、教会の活力は、以前に比べれば、低下しています。時代の流れ、豊かさの最中で、本当に救いを求めなくても生きていける時代に、教会が翻弄されていることもあります。しかし、それと同時に、私たちの教会自身の持っている問題とし、過去に与えられた恵みが、繰り返し繰り返し語り継がれることなく、本当に主がお与え下さった救いと恵みの喜びと祝福が忘れ去られていることに対して、危機感を覚えなければなりません。
私たちにはすでに、神様から与えられてきた多くの恵みの財産を受け継いでいます。@神の御言葉である聖書、特にキリストの十字架の御業。A宗教改革の戦いの中、勝ち取られた信条としてのウェストミンスター信条。B日本キリスト改革派教会の創立の精神が込められている創立宣言と各宣言文書。私たちは、これらの財産を受け継いでいるのです。形式主義に陥ってはなりません。これらの文書が与えられた時の背景から、精神・魂・心・思いを学び、心を熱くして、引き継いで行かなければなりません。
だからこそ、時代が変わり、世代が引き継がれていこうとしている今、私たちは改めて、@キリストが十字架においてお与え下さった救いを、A宗教改革の中、宗教戦争を行っている最中与えられたウェストミンスター信条を、Bそして私たちの教会の心が込められている創立宣言と20周年宣言を、歴史的に、神学的に、そしてそこに込められている魂と思いを、私たち自身が覚え、それらの心を受け継ぎ、繰り返し繰り返し教え、受け継いで行かなければなりません。
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