発行所:日本キリスト改革派中部中会教会学校教案誌編集部
名古屋岩の上伝道所 宣教教師 相馬伸郎
〒458-0021 愛知県名古屋市緑区滝ノ水2-2012
Tel/Fax:052-895-6701
第46号(2012年7〜9月号)
※第46号p71〜p74(8月12日分)に落丁があったことをお詫びいた
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本誌の基本方針〜教会(日曜)学校像について〜
教会学校教案誌編集部
1. 子どもの「礼拝共同体」としての日曜学校
教会をあらわす聖書の表現の一つに「祈りの家」(イザヤ第56章7節、マタイ第21章13節)があります。神の民の祈りの家である教会はまた、古来、「学びの家」と称されてまいりました。
教会は、神の御言葉によって立ちもし倒れもするのですから、教会が御言葉(教会の教え=教理)を教える、つまり学びを施す場所として整えられ、考えられて来たことは当然であったと思います。学びは、必然的に、神の生ける言葉なるイエス・キリストへの礼拝を生み出します。むしろ礼拝においてこそ学びの対象となる生ける神との交わりが与えられ、深められてまいります。つまり、礼拝なしに、教会の学びは成立しないのです。
私どもは、「日曜学校」と称して自らの営みを致しておりますから、うっかりすると「学校」の真似事のような営みへと傾斜してしまうのではないかと思います。日曜学校を学校と称しますが、何よりも、教会自身が学びの家、学校です。そうであれば、日曜学校は、まさに教会独自の「学びの家=学校」になります。
現住陪餐会員によって組織される言わば大人の教会は、礼拝共同体です。このすべての営みを通して、キリスト者が生み出され、その成長がなされます。また、教会が形成され、成長させられます。日曜学校の営みもまた、「子どもの礼拝共同体」の営みとして捉えること、これが本誌の基本的な日曜学校像です。
日曜学校のことを、外部向けに「子どもの教会」と呼ぶ教会もあるようです。もちろん教会は大人と子どもを含んだ契約の民の集いですから、大人の教会、子どもの教会という言い方は神学的には疑問が投げかけられてしかるべきです。しかし、日曜学校を、子どもたちの礼拝共同体として捉えようとする意味であるなら、むしろすばらしいことであると思います。
日曜学校の礼拝式を、私どもはどれだけ真剣に礼拝式として理解し、捧げているか、これは常に問われて良いことと思います。「大人が中心の主日礼拝式は本物だけど、日曜学校の礼拝式はその真似事・・・」このように考える奉仕者は誰もいないと思います。礼拝の真似など不可能です。日曜学校の礼拝式にも、キリストの臨在が確保されています。神の御言葉を語る説教者は洗礼を施されたキリスト者なのですから。
未陪餐会員や地域の子どもたちを対象にした日曜学校とは、現住陪餐会員である日曜学校教師の交わり(教会)の中に子どもたちを迎え入れてなされます。聖餐における交わりの共同体の中に、子どもたちを招きいれ、彼らに届く言葉と式次第(プログラム)を整えて捧げられるのが子どもの礼拝式です。つまり、そこには鮮やかにキリストが臨在しておられるのです。日曜学校の礼拝式に出席して、その後の主日礼拝式(朝拝)に列席する契約の子は二回の礼拝式にあずかっていることになります。
2. 分級中心より、礼拝式中心
子どもの礼拝共同体の形成という視点から日曜学校の働きを位置づけるとき、必然的に、日曜学校の働きの比重は、分級に置くのではなく、礼拝式に置くこととなります。
正直に申しますと、おそらく平均的な日曜学校教師の奉仕の姿は、土曜日の午後になって、切羽詰ったように焦る・・・。もちろん、それは良いことでないことは明らかです。そこでこそ、準備の手間を軽減させてくれるような教案誌やワークブックを求める・・・。 本誌が、繰り返し申し述べて参りましたことは、「分級展開例をそのまますることが大切なのではありません。分級では、子どもと共に祈りを捧げることができればそれで良いのです。」準備したもの全部をやれたかどうかということが分級運営の良し悪しの基準にはならないと思います。礼拝式で、きちんと福音が届いていれば、分級は「オマケ」くらいに考えてくだされば良いと考えております。ただし、子どもたちがそのオマケに目がないことは、お互い良く知っていることでもあります。
3. 子ども礼拝式における説教の重要性
−日曜学校の目標−
日曜学校の目標を、もし一言で言い表すなら、「祈りの生活へと導くこと」となります。「信じることは祈ること」であり、それゆえに日曜学校の目標は、自分の言葉で祈れる子ども、祈る生活を確立できるように導くことにこそあります。しかもそれは、まさに公同の、共同の祈りである子ども礼拝式の充実によってこそ、正しく担われます。個人的な祈りの生活の訓練だけに焦点をあてるようなアプローチを改革教会はとることはできません。主日礼拝式(公同の大きな祈り)に支えられ、あずかってこそ、個人の小さな祈りの生活は生み出され、健やかに立つことができます。
またそうであれば、当然、子ども礼拝式の中心が神の言葉の説教に求められることは、明らかとなると思います。何故なら、祈りとは信仰の業であり、それは御言葉を聴くことから始まるからです。外からの言葉つまり御言葉によって、信仰が与えられ、祈りの言葉は与えられ、生み出され、紡ぎ出されるのです。ですから、日曜学校の働きにおいても、あるいはそこでこそ説教の重要性が強調されることになるでしょう。そうなれば、牧師こそが日曜学校の奉仕、礼拝説教を担うことが求められるのではないでしょうか。
本誌の説教展開例は、要旨、ポイントだけではなく、ほとんど完全原稿を掲載しています。それは、一つのモデルを提示する試みです。もちろん、大切なことは奉仕者自らが、これを参考にしつつ、御自分の言葉で説教の言葉を紡ぎ出していただくことです。そこでわきまえるべきことは、聖霊御自身が、聖書を説く自分の言葉、声を用いて子どもたちに届けてくださることを信じることです。主イエスへの愛と子どもたちへの愛があれば、必ず、子どもの心に主イエスを紹介することができます。届くことができます。
4. 説教の完成としての牧会
−分級の目標−
さて、しかしながらまたここでこそ、分級の固有の意義、重大な意義も明らかになります。神の言葉の説教を通して子どもたち全体になされる御業は、また一人の子どもの固有の状況、心の奥底にも届きます。しかし、一人の子どもの魂の状況に、より的確に触れ、届けるためには、「牧会」が求められます。私どもが、分級の目標を「共に祈る」こととしておりますのは、子どもへの牧会を指し示すあり方を指し示しているのです。この牧会に奉仕するのが分級なのです。この分級イメージは、「牧会」のイメージ、子どもと向き合う姿勢です。子どもの心、気持ちを聞き出すこと、聴き取ることが求められます。そこでこそ、教室において生徒全体に均一の知識を提供する「学校」のイメージは薄くなるはずです。
説教(神の言葉の共同的伝達)と牧会(個人的伝達)が有効になされる時、日曜学校は正しく豊かな実りを結ぶことを確信致します。
5. 教会形成の一環としての日曜学校
−教師会と教師−
およそ教会的な奉仕の在り方は、いずれも共同的な奉仕の業です。とりわけ、日曜学校の働きは、共同の働きによってこそ正しく担われ、正しい実りが結ばれるのです。つまり、担任教師の力量に基く、それぞれの分級の力に期待するよりむしろ、教師会(全員)の奉仕と祈りを束にして子ども礼拝式の充実を求め、そのために努力するあり方こそ求められていると考えます。
例えば、礼拝説教を担うのは、担当日の奉仕者一人です。しかし、その時こそ、その背後の教師たちの祈りがどれだけ集められるかが問われます。教師たちの祈りに支えられてこそ説教や、その礼拝式は必ず聖霊の豊かな働きのなかで捧げられることを確信いたします。
教師会が、単に教師たちの実務的会議で終わるのではなく、日曜学校の働きを担う核としての「共同体」として形成されることが大切なのです。具体的には、充実した教案研究がなされ、全体の課題と一人ひとりの課題とを共有できる教師会を持つことです。本誌は、その一助となるために発刊されたものです。
さらに申しますと、教会全体の祈りに支えられなければ、日曜学校の業が、教会形成そのものとしての結実を求めることは難しくなくなります。日曜学校の働きとは、各個教会の形成と伝道の働きそのものと直に繋がっているのであり、そうでない働きは、少なくとも改革教会の教会形成の筋道とは異なる日曜学校となってしまいます。だからこそ、礼拝指針の第31条にある通り、小会の監督、配慮が定められているのです。日曜学校の営みとは教会形成そのものの営みなのです。いわゆる賜物のある牧師とか専門家の牧師だけが担うものではありません。
6. 伝道する日曜学校像
日曜学校は契約の子の信仰継承のためにもあります。しかしこれまで、宣教地である日本の教会は、日曜学校を地域の子どもたちを捉える伝道の場として考えてまいりましたし、今なお同じ状況にあると思います。
私どもは、今日の日本の荒廃は、教会の福音伝道の力の低下の責任であると考えております。社会から、教会の責任を問う問いはどこからもあがっておりません。しかし、神からは、問われています。
私どもの目に子どもたちは、どのように映っているでしょうか。彼らは、天地の創造者なる神、罪の赦しの福音に飢え渇いて、倒れています。真の教会で説かれる福音が届きさへすれば、子どもらこそはっきりと霊的な反応を示してくれるのです。現実の困難さを理由に、日曜学校を通して、地域の子らに伝道しようとする意欲と働きを減退させてはなりません。
私どもは、教案誌を作成し、出版すればそれで良いとはまったく考えておりません。日本キリスト改革派教会をはじめ日本の諸教会から子どもたちの讃美の声、祈りの声が溢れるようになることをこそ目指しています。
「子どもたちを私のところへ来させなさい」と命じられた主イエスの御前に、共に悔い改め、祈りの叫びをあげたいと思います。忍耐と労苦が求められます。けれどもその光景を夢見ながら、主と共に、皆様と共に、戦い続けてまいりたいと祈り願っています。
本誌へのご批判、ご意見をお寄せ下さい。改革派日曜学校像を確立するために神学的、実践的な広い論議を心から期待致しております。
Soli Deo Gloria!(ただ神の栄光の為に!)