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第17号 巻頭説教 「本当の権威者 (2005年4月)
         −マタイによる福音書21章23〜27節による説教−     岩崎謙(神港教会牧師)

彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
(マタイによる福音書21章25〜27節)


 今日の聖書箇所には、権威という言葉が繰り返し登場します。本当の権威者とは誰なのかが、今日の主題です。父親や教師の権威がなくなったとよく言われますが、権威に対する感覚が鈍くなるとすれば、これは教会にとって死活問題です。なぜならば、御言葉の権威を敬うところにのみ、教会は立ちうるからです。
 では、聖書を読み進めましょう。イエス様は、エルサレム入場において、ダビデの子にホサナというメシアの称号を受けられました。エルサレムに入るとすぐ宮清めをされ、暴力的ともいえる仕方で、神殿から商人を追い出しました。イエス様は、次の日にまた神殿においでになり、神殿で教えておられます。
 そこに、祭司長と民の長老達が登場します。そして、イエス様に二つの質問をしました。一つは、「何の権威でそのことをしているのか」です。律法学者なのか、預言者なのか、祭司なのか、どのような肩書きで、宮清めをしたり、民衆に教えたりしているのかが問われています。二つ目は、「誰からの権威でしているのか」です。エルサレム神殿における権威者である祭司長や民の長老たちが、イエス様にそうすることができるような権威を授けた訳ではありません。祭司長たちからすれば、彼らの承認を受けずに勝手に振る舞うイエス様が邪魔でしょうがなかったのです。本来なら、彼らは、権威の所在を問うこともなく、力づくでイエス様の活動を止めさせることを望んでいました。ところが、民衆が、イエス様の癒やしの奇跡に驚き、イエス様のお話に熱心に耳を傾けています。民衆からすれば、イエス様はその実力において十二分に権威者です。祭司長たちの苛立ちは、彼らの承認を受けていないイエス様が、民衆により彼ら以上の権威を授けられていることにありました。
 イエス様は、祭司長や長老の問に答えるまえに、逆に彼らに質問しました。祭司長や長老がイエス様の質問に答えることができた場合にのみ、イエス様も彼らの質問に答えようと語られました。イエス様の質問は、バプテスマのヨハネの権威は、「天からか、人からか」という問です。「天からの権威」とは、神様から与えられた権威という意味です。「人からの権威」とは、自分で努力して、人から獲得する権威です。
 バプテスマのヨハネは、祭司長や町の長老たちによって、権威を与えられて活動していたわけではありません。もし、バプテスマのヨハネの権威を認めるとすれば、祭司長や長老によって与えられたのではない権威が、当時の社会においても機能していることを認めることになります。また、さらに、そのヨハネは、自分の後から来る救い主に対して、わたしは靴の紐をとく値打ちもないと、イエス様の権威を認めていました。バプテスマのヨハネの権威を受け入れるなら、そのバプテスマのヨハネが認めていたイエス様の権威をも受け入れることになります。
 彼らは、イエス様からの問いかけを受けて、慎重に答え方を検討しています。一方で、天からの権威といえば、イエス様から必ず、「何故、天からの権威を受けたヨハネに従わないのか」と詰問され、イエス様の権威をも「天から」と答えることになります。他方で、「人から」と答えるならば、ヨハネのことを人々が天からの預言者と認めていますので、彼らは民衆から非難を浴びることになります。ですから、彼らは、「分からない」と答えました。彼らが真剣に考えたのは、権威の問題ではなく、自分にとっての損得勘定です。天からと答えるのと、人からと答えるのと、どちらが、彼らにとって都合が良いかを考え、どう答えても自分たちに不利になると判断し、何も答えない結論に達しました。それが、彼らの「分からない」です。
 権威とは、権威があることを認め、かつそれに服従する意志がある場合においてのみ、意味を持ちます。天からの権威とは、自分にとって不利になっても、認めざるを得ない権威です。本当に権威あるお方であれば、受け入れるしかなく、権威のないお方であれば、受け入れる必要はありません。イエス様を権威あるお方と見なすのか、権威のないお方と見なすのかを、一人一人がイエス様の前で決断しなければなりません。
 イエス様は、彼らに対して、私自身もまた答える必要はない、と語られました。彼らが、天からの権威に従おうとしていないからです。イエス様は、バプテスマのヨハネと同じ性質の、人の手によるのではない権威を持っておられます。しかし、イエス様が、「天からのメシアの権威である」とお答えになっても、祭司長達はイエス様の権威を受け入れることはありません。ですから、イエス様も答えることを差し控えられます。
 そして、福音書は、この世の権威者である祭司長や民の長老が、天からの権威者であるイエス様を殺すという構図を明確に描き出します。偽りの権威者が、自分の権威を守るために、イエス様を殺すのです。天からの権威が確立されるとそれに服従せねばなりません。そのことを嫌う者たちは、イエス様を殺し続けるのです。自らの偽りの権威を振りかざして、本当の権威者を殺すのです。
 しかし、否定することができない権威が、本当の天からの権威です。権威を巡る問いは十字架後の復活の出来事と結びつきます。マタイによる福音書の末尾は、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」という復活のイエス様の御言葉で締め括られています。この権能とは、権威と同じ言葉です。イエス様の権威とは、人々のために十字架で死に、神により復活させられ、天からの権威であることを証明された権威です。ローマ書の言葉によれば、「死者の中からの復活によって神の子と定められた」権威です。自分の権威を守ろうとする者たちによって一度は殺されるのですが、そのことによって、罪人の罪の贖いを成し遂げて、父なる神様によって復活という仕方で高く引き上げられる権威です。イエス様の権威が天からのものであることを指し示す究極的な印は、復活の出来事です。
 今日の社会においては、「日の丸」、「君が代」等の上からの締め付けが驚くほど厳しくなっています。「天からの権威」を知る感覚が麻痺した社会においては、人の権威が最高の権威にまで上り詰めます。このような社会であるからこそ、十字架において人に仕え、復活において高められたイエス様の権威を、教会学校において、子供達に教えましょう。その際の教え方は、言葉によるだけではありません。教師が、偽りの権威を振りかざすことなく、本当の権威者にひれ伏すなかで、子供達は天からの権威を学ぶことができます。イエス様の権威は、イエス様を礼拝することを通して、学ばれます。人間に過ぎない者が、権威主義的に振る舞うことを決して許さない場所が、イエス・キリストの教会なのです。





第18号 巻頭説教 「教えの初歩を離れ (2005年7月)
         −ヘブライ人への手紙6章1〜12節による説教−     小野静雄(多治見教会牧師)

 だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。神がお許しになるなら、そうすることにしましょう。一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。
 しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。 (ヘブライ人への手紙6章1〜12節)



 (1) 多治見教会は、この町で100年の歴史を刻むことができました。その恵みを、私たちは昨年とその前の年に、感謝しつつ記憶してまいりました。この東濃の地方都市で、イエス・キリストとその福音に生きることを、ひたすら学び続けた人々の歩みを、私たちは、どれほど感謝してもし足りないと思うのです。そして、先立って行った人々への感謝は、今の私たち自身がどのような信仰に生きてゆくか、ということと深いつながりをもっております。過去の恵みを忘れる教会は、将来への歩みを心をこめて進めてゆくことができないからです。
 しかし、同時に、教会の歩みは、過去の歩みに恋々としてそこに留まっていることではありません。私たちは、前進する神の民です。イエス・キリストの教会は、地上を旅する神の民であります。地上を旅する神の民。この神の民は、何を目指して旅を続けるのでしょう。それはもうはっきりしております。イエス・キリストに向かう旅です。イエス・キリストと共に生きる信仰の歩みです。教会が、イエス・キリストを目指す地上の旅人であること。その恵みを、もっとも深く描いた書物のひとつが、ヘブライ人への手紙です。イエス・キリストにおいて、ほかのどんな地上の宝にもまさる、掛け替えのない救いが完成しました。キリストご自身が、救いの完成者として、命の君として、私たちの地上の旅路の先頭に立っていてくださいます。ですから、このイエス・キリストに目を注ぎましょう。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら、忍耐強く走りぬこうではないか」(12章1、2節)。イエス・キリストから目を逸らさないでいよう。それが、ヘブライ人への手紙の、終始変わらない訴えなのです。そのような、この手紙ぜんたいの脈絡の中に、今朝の聖書の言葉を置いてみます。そうすると、「教えの初歩を離れ」ということが、どういうことかが理解されてまいります。「成熟を目指して進もう」ということが、どのような訴えであるかが理解されてくるのです。
 (2) ここで、ヘブライ人への手紙の著者が、「基本」とか「初歩」と言っているのは、どういうことなのでしょうか。挙げられているのは、6つの教えです。「死んだ行いの悔い改め」「神への信仰」「種々の洗礼についての教え」「手を置く儀式」「死者の復活」「永遠の審判」など。これらは、どういう意味で「基本」とか「初歩」の教えと呼ばれているのでしょうか。ふたつの読み方があるようです。
 ヘブライ人への手紙を受け取った人々は、もともとユダヤ人であり、旧約聖書に養われた人々です。旧約聖書によほど親しんだ人でないと、よく分からないような言葉や考え方が、この手紙にはしばしば出てまいります。そうしたユダヤ人でキリスト者になった人々にとって、ここに挙げられている言葉は、どれもユダヤ教徒の時代に、すでに学んでいたことでした。死んだ行いの悔い改め。神への信仰。死者の復活とか永遠の命さえも、旧約聖書の教えにすでに記されております。種々の洗礼。これはとくに、ユダヤ人に馴染み深いものでした。つまり、基本的とか初歩の教えと言われるのは、ユダヤ教からキリスト教への、最初の一歩を踏みしめたときの信仰のことである。それがひとつの読み方です。
 もう一つの読み方は、ここに挙げられているのは、どれも、今から洗礼を受けようとするときに、受洗の準備のために学ぶ信仰の教えだというのです。ヘブライ人への手紙のあて先は、おそらくローマにある教会、ローマにいるキリスト者の集いのために書かれたと思われます。そのローマの古い教会に伝わった、洗礼の準備のひとつに、キリストの名による洗礼に先立って、予備的な洗礼を受ける儀式があったことが伝えられています。それによるとここに記されている6つの基本的な教えは、洗礼を受けようとする人に教会が教える、洗礼準備教育の内容でだったと言われるのです。
 以上ふたつの理解のどちらをとるにせよ、ここで「基本的」「初歩」と呼ばれている教えは、キリストへの信仰の、最初の一歩を意味していることは疑いありません。この最初の一歩は、もちろん全てのキリスト者にとって、生涯、決して離れることのできない信仰の一歩です。ヘブライ人への手紙の著者は、こういう初歩の教えを、忘れなさいとか、捨ててよい、と言っているのではありません。しかし、信仰の歩みは、ひとつのところに留まっていることはできません。新たに始まる信仰の戦いにそなえて、信仰の理解にも進歩と成熟が求められているのです。
 (3) ヘブライ人への手紙には、信仰から離れて、この世の教えに舞い戻る人々のことが、何度も記されております。ユダヤ教から福音へと改宗した人々の中にも、もとのユダヤ教へ再び戻る人がいたようです。せっかく聖書の信仰を学んだ異邦人のキリスト者の中にも、この世の教えの方に心を奪われる人々がいたわけです。信仰から離脱してしまう、この世に迷い込んでしまう。そういう危険が、日々差し迫っているのです。それが、ヘブライ人への手紙の中に流れている、警告の響きです。この警告の響きを聞き逃してはなりません。洗礼を受けたときの、洗礼準備のときの教育だけで、わたしの信仰は十分だ、などと考える人はいないのです。赤ちゃんが、生まれたときには、まずミルクを飲んで育ちます。赤ちゃんに最初から、パンを食べさせたり、ご飯を与えるような親はいないでしょう。成長するに応じて、まず柔らかいもの、そして少しずつ固い食物を与えるものです。一方、いつまでたっても、ミルクだけでよい、という子どもはいません。少しずつ固い食物を受付けるようになるからです(5章12、13節)。
 さて、固い食物とは、必ずしも、難しい話ということではありません。実際、ヘブライ人への手紙を書いた人は、自分がどういう言葉で、どんな説明をしているかを、十分に弁えている人でした。9節「しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても・・・」。自分が、どんなふうに話しているか。自分の言葉が、手紙を読む人々に、どんなふうに感じられているかを、十分に知っているのです。つまり、少し厳しい言葉を使っていること、これを読む人々が、ちょっとひるんでしまうだろうということを知っているわけです。教会で語ることを託される者たちは、いつでも、自分がどのような言葉で語っているかを、よく弁えていることが大切です。
 (4) 4〜6節に書かれているのは、相手をひるませるような言葉です。(中略)このような厳しい言葉を話しているが、あなたがたについては、もっと良いことがあると続けております。厳しい言葉を語りっぱなしにしないのです。「救いにかかわることがあると確信している」。つまり、本当に言いたいのは、あなたがたの救いが、どんなに確かであるか、ということです。その証拠を挙げているのです。それは、あなたがたが今までも、これからも、キリストの教会に生きている、という揺るぎない事実だと言っております。「あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えていること。神の名のために示した愛」。それを神様は決して忘れる方ではないというのです。「聖徒の交わり」という恵みの中で、私たちが生きていること。互いに仕え合うことによって、神の恵みを分かち合っていること。それこそが、教会と信仰の宝であることを、読者によく理解してほしいと願っているのです。
 「神の名のために示した愛」と言われます。私たちが、教会に生きるということは、神の名のために生きることです。誰かの心に寄り添い、だれかのために祈り、だれかのために小さな奉仕の働きをさせてもらう。それは、けして自分の名のためではありません。牧師が、自分の名のために何かを始めたら、もう教会は教会でなくなるでしょう。当然のことです。長老や執事が、自分の名のために何かをしようとすれば、その働きから、おそらく本当の愛は失われるのです。私たちが教会ですることは、神の名のため、イエス・キリストの美しい名のためです。キリストが生きてくださるためにこそ、互いに聖徒の交わりに心を尽くしているのです。
 そのように考えると、教えの初歩を離れることは、私たちが、地上を旅する神の民であることからくる、じつに自然な願いであることがわかります。洗礼を受けた当初の、初歩の教えだけでよいなどとは、誰も考えていないのです。パウロは、エフェソの信徒への手紙3章18節に「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり・・・」と言っております。聖書の教えは、たんなる知識ではありません。結局それは、イエス・キリストの内に表された、神の愛を知ることです。そしてその愛の中に住まうことです。いずれにしても、私たちは、洗礼のときの信仰と理解から出発して、さらに深く、さらに遠く、さらに大きな愛を知ることへと旅立ったのです。
 (5) 初歩を離れるということの意味が、分かっていただけたでしょうか。そして「成熟を目指す」のであります。12節には、「あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしい」。私たちは、決して信仰の歩みにおいて、焦ったり急いだりする必要はありません。じっくりと、いまの信仰の足場を固めてゆく、そして前進したいのです。焦らず、怠けず、それが合言葉です。
 ヘブライ人への手紙では、約束された人たち、といえばまず誰よりも、アブラハムのことを思うべきでしょう。(中略)そして、この信仰の道を、もっとも深く、誰よりも完全に辿ってゆかれたのは、主イエス・キリストであられます。信仰の創始者また完成者。それが、ヘブライ人への手紙の描くキリストです。キリスト以上に、この信仰と忍耐の道を、怠けず、心を鈍らせずに歩まれた方は他におられません。ですから私たちは、信仰の目をいつでもイエス・キリストに向けるのです。キリストは、いったいどのようにして、地上の生活のなかで、信仰と忍耐を尽くされましたか。主イエス・キリストは、私たちの救いのために、どんな良いことをしてくださったのですか。そのキリストの恵み、キリストの献身を学ぶ上では、決して私たちは怠け者であってはなりません。何よりも、キリストは、私たちの罪を神様に執り成すために、みずから永遠の大祭司となって、天の幕屋の中へ入ってくださいました。ご自分の流した十字架の血を携えるほどの、大きな深い愛をもって、キリストは私たちの大祭司となられたのです。これが、ヘブライ人への手紙が教える、成熟した信仰です。このような永遠の大祭司を、私たちは天にもっているのです。アブラハムが、誰よりも慕い求めたのは、この天の大祭司キリストでした。
 これが成熟した信仰であれば、いったいだれがそのような成熟を避けようとするでしょうか。この成熟は、私たちすべてのキリスト者の憧れです。「成熟(を目指して)」と訳されているのは、「完全」という言葉です。ヘブライ人への手紙では、完全という言葉は、ただイエス・キリストだけに当てはまる言葉として用いられています(2章10節、5章8〜10節)。成熟を目指す、ということは、なにか人間の知識や理解力の意味で、成熟してゆくとか、立派になるということではありません。それはひとえに、イエス・キリストの完全さ、イエス・キリストの救いの確かさに向かうことです。どんなことがあっても、キリストの愛から迷い出ない、という信頼と知識に生きることです。
 今年、私たちの教会は、聖書の福音と、宗教改革の信仰告白への理解をいくらかでも深めることを願っております。聖書に込められた、神様の救いの教え。救いの教理。その全体を、少しでも深く豊かに学ぶことができればと願っているのです。その究極の目当ては、イエス・キリストです。キリストを知り、キリストに生きることであります。福音の教理とは、イエス・キリストご自身ですから、キリストを知ることにおいて、怠けることを知らない者にされたいと思います。キリストを学ぶことに疲れを知らない人にされたいのです。神がおゆるしになりますから、私たちも、この一つのことにおいて熱心な者になれるのです。



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