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第5号論文   「オランダ改革派教会における契約の子の教育」  その一
               牧田 吉和(神戸改革派神学校)                (2002年4月)


はじめに
 日本キリスト改革派教会は、創立宣言において表明した教会形成論において「一つ信仰告白、一つ教会政治、一つ善き生活」の三本柱を主張しました。しかし、信仰告白を厳密に保持し、長老主義政治の確立を目指したからと言って、それで聖書的教会が自動的に形成されるわけではありません。それらは、必要条件ではあったとしても、十分条件とはならないからです。 
 筆者が見た限りにおいて言いますと、例えばスコットランド長老主義教会とオランダ改革派教会の場合を思い起こします。改革派教理の純正さの堅持、長老主義政治の徹底性において、両教会とも相互に勝るとも劣らない内容を持っています。しかし、現在における客観的状況としては、スコットランドの長老主義教会にはもはやかっての栄光の姿はありません。著しい老齢化が目立ち、衰退をどのように食い止めるかが現在の緊急の課題になっています。一方、オランダ改革派教会も、今日の世俗化の波に飲み込まれ、後退を余儀なくされ、困難に直面していることは事実です。しかし、オランダ改革派教会はなお活力を維持し、教会においてなお若い世代や多くの子どもたちを見出すことができます。この両者の差をそれほど単純に説明できるわけではありません。歴史的・社会的・経済的諸要素も複雑に絡まっているからです。それにもかかわらず、一つの点が指摘できるとすれば、それは契約の子の教育の問題です。スコットランド長老主義教会との比較において、オランダ改革派教会における契約の子の教育の徹底性はやはり注目すべき特色です。少なくとも現時点における両教会の現状の差の一つは、契約の子の教育の徹底性に起因していることは確かだと思います。
 オランダの改革派教会は日本の教会とは歴史的背景も宗教的環境も異なります。したがって、契約の子の教育自体もそれをそのまま日本の教会に適用するわけには行きません。しかし、オランダ改革派教会が、歴史において契約の子の教育とどのように取り組んで来たかを見ておくことは無意味ではありません。日本の状況を踏まえた上で、その歴史から学び、今日における契約の子の教育の具体策を独自に創出できる可能性があると思うからです。
 そこでこの小論においては、オランダ改革派教会の契約の子の教育、特に「カテキズム教育」を中心に、その歴史的展開を紹介し、日本キリスト改革派教会の契約の子の教育の今後を考えるための素材を提供したいと考えています。
 この小論で取り扱う範囲は、歴史的にはオランダ改革派教会が誕生してくる16世紀半ばから18世紀末までです。これ以前の宗教改革期にすでにカテキズム教育には実績があります。カテキズムについての詳細な歴史的研究を行ったW.フェアボームよれば、宗教改革期のカテキズム教育の中心は、ヴイッテンベルク、チユーリッヒとその周辺、ストラスブルク、ジュネーブ、ハイデルベルク、ロンドン・オランダ亡命人教会などです(W.フェアボーム:『宗教改革と第二次宗教改革のカテキズム』、1986年)。ヴイッテンベルクはルター派の拠点ですが、他のところは皆改革派に関係します。この事実それ自体が、すでに改革派教会におけるカテキズム教育の特別な熱心を示唆しているでしょう。オランダ改革派教会のカテキズム教育は、これらの中心地の影響を受け、その基礎の上に築かれたものです。しかし、この小論ではこれらの中心地のカテキズム教育に詳細には立ち入りません。上記の時代の範囲に限定し、必要な限りそれらの中心地のカテキズム教育についても触れることにします。


I. オランダ改革派教会のカテキズム教育と「家庭」
 宗教改革期のカテキズム教育について、どの場合にも当てはまる一つの事実があります。それはカテキズム教育における「家庭」と「学校」と「教会」の「トライアングル」です。その三つ組は一体的なものです。この「トライアングル」は、オランダ改革派教会のカテキズム教育においても完全に当てはまります。そこで、まず「家庭」との関連におけるカテキズム教育の問題から取り上げることにします。
 
1. 家庭における契約の子の教育の強調
 教会のカテキズム教育を行うにあたって、家庭における契約の子の教育が不可欠な前提です。オランダ改革派教会は、当初から恵みの契約の概念に基づき、契約の子の教育に関する両親の責任を特別に強調してきました。
 教会的にはすでに1568年の「ヴェーゼル協議会」で両親の契約の子に対する教育の責任が指示されています。1572年の「エアダム大会」では両親がどのように契約の子の教育を行っているかを監督する教会の義務に言及しています。しかし、幼児洗礼における誓約者(通常は両親)の契約の子に対する教育責任についての誓約条項が含まれるようになったのは1586年のことです。1603年の「ハルダーウェイク地方大会」では、教会役員が家庭訪問し、両親によって契約の子たちが教育されている内容を試験することを定めています。1618〜19年の有名な「ドルトレヒト全国総会」も、教会が家庭における契約の子の教育を監督する責任を明確にし、教会による譴責にも触れています。
 しかし、以上のことは家庭における契約の子の教育が忠実に果たされたことを意味しているわけではありません。むしろ、その義務が無視されることがたびたび起こりました。上に述べた教会役員による契約の子の教育内容の試験実施、あるいは義務不履行に対する譴責の問題も、そのような歴史的現実を背景にしてはじめて適切に理解できることです。両親の怠慢に悩んだ教会は、1598年の「アルンヘム大会」では公権力の干渉さえも必要とするといった議論をするほどでした。つまり、オランダ改革派教会の家庭における契約の子の教育は、簡単に実現されたわけではなく、教会が長い時間をかけて苦闘しながら、粘り強く取り組んできた結果なのです。
 家庭における契約の子の教育に対する教会の監督は、歴史的伝統を堅持するオランダ改革派教会においては今日でも実践されています。オランダ改革派教会には年二回定期的に家庭訪問を実施する伝統があります。長老と執事が一組になって、担当地域の各家庭を訪問します。訪問の際には、聖書朗読と祈り、短い勧めがなされ、その後で両親に対し、また子供たちに対し、様々な質問が投げかけられます。その中で重要な役割を占めるのが、家庭における契約の子の教育の実情を問うことです。どのように家庭礼拝を実施しているのか。どのように子供たちに聖書や教理を教え、詩篇歌を覚えさせているのか。長老と執事が次々と質問してきます。留学生であり、牧師である私に対しても遠慮のない質問が向けられました。この家庭訪問の報告書が小会に提出され、問題があれば牧師があらためて訪問し、指導します。場合によっては、小会から譴責を受けることも覚悟しなければなりません。

2. 家庭における契約の子の教育の内容
 家庭における契約の子の教育の内容は、宗教改革期の契約の子の教育内容とほぼ一致しています。整理すれば、以下のような内容に要約できます。
 @ 諸教理問答に含まれているような、「十戒」、「使徒信条」、
   「主の祈り」を内容とする基本的な改革派教理。
 A 礼典について(これも諸教理問答に含まれている)。
 B 朝の祈り、夕の祈り、食事の時の祈り、その他の祈り。
 C 詩篇歌と他の賛美歌。
 D 聖書。聖句及び聖書物語。

3. 家庭における契約の子の教育の教材

 家庭におけるカテキズム教育の教材に関して、1563年にペトロス・ダテヌスの「ハイデルベルク教理問答」のオランダ語訳が出版され、それが教科書として使用されることが推奨されました。しかし、それは実際には子供たちには難しすぎたために、1574年の「ドルトレヒト地方大会」では、ミクロニウスの「小教理問答」(1552年)の使用も容認されました。後には、ファウケリウスの「キリスト教要理」(1608年)がミクロニウスのものに替わって用いられるようになりました。この書は、ミッデルブルフの牧師であったファウケリウスが「ハイデルベルク信仰問答」を契約の子の教育用に要約したものです。しかし、地域的に様々な教理問答書が用いられた事実も知られています。例えば、北部地域ではマルニックスの「小教理問答」(1592年)が、ゼーランド地域ではテーリィンクの「小教理問答」(1592年)が用いられることがありました。その他、神学的な立場によっても区分けされうる多くの教理問答書が存在しました。1637年からは、ファウケリウスの「キリスト教要理」が公認「詩篇歌集」の巻末に収められ、契約の子の教育用として教会的権威をもつものとなりました。
 契約の子の教育は、教理問答にとどまらず、聖書物語にも及びました。17世紀半ばから18世紀初めにかけて、ボルステイウス、クールマン、ステレソ、リッデルス、ドートレイン、ヒュブナー、ホンデイウスなどの聖書物語教本が出版され、家庭で用いられました。

4. 家庭における契約の子の教育の実際
 家庭における契約の子の教育の方法について、ヨハネス・ア・ラスコやミクロニウスが奉仕した「ロンドン・オランダ亡命人教会」を例にとって紹介しておくことにします。この教会にとって、亡命人教会として、母国とは異なった環境の中で教会的アイデンティティを保つために、改革派教理の堅持は生命的な意味を持ちました。そのために教会における教理問答教育がきわめて重要な意味を持ち、それと一体化した家庭における契約の子の教育も一層重視されました。またこの教会における教理問答教育は、すでに言及したミクロニウスの「小教理問答」が母国において使用されるようになった事実からもわかるように、母国オランダの改革派教会に大きな影響を与えました。
 ロンドン・オランダ亡命人教会は、子供たちが5才か6才で基礎的教理を教会の試験の場で暗誦することを求めました。したがって、両親は家庭で子供たちに教理問答教育を施さなければなりませんでした。小さな子供たちにはミクロニウスの「小教理問答」(1552年)を用いて教え、成長するとア・ラスコの「大教理問答」(1546年)を教え込みました。教授方法は、記憶をし、暗誦するという古典的で、単純素朴な方法でした。
 家庭における契約の子の教育の実際をさらに具体的にイメージするために、17世紀初め頃の家庭における安息日の過ごし方を紹介しておくことにします。当時、家庭を「小さな教会」と見なすことは広く行きわたっていました。これをピューリタンの影響と見なす人も多いのですが、その点は確証されていないとする歴史家もいます。しかし、いずれにせよ、契約神学に立つ改革派・長老派の場合には、家庭はあくまで契約の家庭であり、家庭が「小さな教会」と見なされるのも当然でしょう。以下、テーリンクが与えている安息日の過ごし方の指針を提示しておきます。
 i. 午前中のプログラム
  @ 聖書朗読。
  A 安息日礼拝への出席。
  B 個人祈祷。
 ii. 午後のプログラム
  @ 説教についての語り合いをし、詩篇歌を歌って、食事をする。
  A 午後の安息日礼拝への備え。
  B 午後の安息日礼拝への出席。
  C 個人的黙想、また説教についての共同の語り合い。
  D 子供たちと一緒に説教の復習及び個人的な時間。
  E 祈り
 iii. 夕のプログラム
  @ 聖書朗読と食事。
  A 交わり、祈りそして詩篇歌を歌うこと。
  B 個人的黙想。
  C 祈り。
 以上のようなプログラムを見れば、家庭においてどのような信仰生活がなされていたか、またそれが契約の子たちの信仰教育といかに密接に結びついていたかを容易に想像していただけるでしょう。
 このような伝統は、歴史的伝統を重んじるオランダ改革派教会では現在でも相当部分生きています。週日においても今日でも基本的に三回の食事毎に家庭礼拝が守られています。安息日には、礼拝の後に家庭で説教の内容についての話し合いがよくなされています。筆者自身、たびたび礼拝後にお茶に招かれ、そのときの話し合いはいつも説教をめぐってでした。その伝統の根源は、上に掲げた安息日の守り方にあることを後になって理解することができました。
 以上、今回は、「家庭」における契約の子の教育について紹介しました。次回は、上に指摘した「トライアングル」の他の二つ、「学校」と「教会」における契約の子の教育について記すことにします。
(次号に続く)




第7号論文   「オランダ改革派教会における契約の子の教育」  その二
               牧田 吉和(神戸改革派神学校)                (2002年10月)


 前回(第5号)は、オランダ改革派教会の契約の子の教育が「家庭」と「学校」と「教会」の「トライアングル」において成立していたことを指摘し、その三つのうち「家庭」における契約の子の教育について紹介いたしました。今回は、残りの二つ、「学校」と「教会」における契約の子の教育について紹介させていただくことにします。


II. オランダ改革派教会のカテキズム教育と「学校」

1. 改革派信仰の確立と学校の設立
 オランダにおいて宗教改革が起こり、改革派信仰が導入された時、重要な意味をもったのは学校教育でした。改革派信仰が国民の間に定着するためには、子供たちが改革派信仰の原理によって教育される必要があったからです。すでに1574年の「ドルトレヒト地方大会」は牧師たちに良い学校を作るように要請しており、1586年の「ハーグ全国総会」は学校の設立が中会、小会の責任であることを表明しています。1582年の「ネイメイヘン地方大会」は公権力に対してハイデルベルク信仰問答によって教育が行われる学校の設立を求めています。

2. 学校をめぐる教会と公権力との関係
 このようにして改革派信仰に基づく学校が設立されて行くのですが、問題となったのは学校をめぐる教会と公権力との関係でした。学校は教会と公権力に依存せざるを得なかったのですが、その際教会と公権力とがどのように相互の関係を保つかということが問題になります。全体的な状況としては、両者の関係は比較的良好でした。教師の任命は両者が一緒になって行っていましたし、また教師の試験は教会が、給与、学校の施設関係、教科書などの教材、その他の財政面は公権力が責任をもつ、という役割分担がなされていました。後には生徒が費用を負担するという事態もおこったのですが、それに伴って教会の執事的奉仕が機能し、貧しい子供たちの援助を行ったのです。いずれにしても、どの子供たちにも教育を受けさせねばならないという強い自覚があったことは確かです。
 教会の側の学校に対する責任に関して言いますと、中会あるいは牧師たちによる監督責任が定められていました。教会は、教師たちの品行と仕事振り、特に信仰教育の仕方また教科書について厳しく監督しました。子供たちも調査対象とされ、信仰教育が効果的になされているかどうかを知るために、教理に関して試験さえ実施されたのです。教会の監督責任は、学校規則にも及び、定められていた改革派信仰の堅持が正しく維持されているかどうかも調査されました。しかし、教会による監督責任も18世紀には入るとないがしろにされる傾向が生まれ、そのためにその怠慢が糾弾される事態も起こっています。この事実は、18世紀には学校経営に関して、教会よりも公権力の方がより大きな影響力を持つようになっていたことを裏づけるものです。
 学校の教師は特に教理に関して中会あるいは小会によって試験されました。また、教師として、敬虔な生活、信条に関する誓約、改革派教会の信徒であること、戒規に服すること、教育の能力などが条件として要求されました。しかし、これらの条件を満たす教師を得ることは必ずしも容易ではなかったことも事実のようです。

3. 学校教育の内容
 学校教育は、一市民として生活するために、読むこと、書くこと、計算することなどの実用的な教育、また道徳やしつけなどを行いましたが、何よりも重要な意味を持ったのはやはり信仰教育でした。1618−19年の「ドルトレヒト全国総会」は、教理問答教育のために週二日を割くことを要求しました。教理問答教育を担当したのは、当然のことですが通常は教師でした。しかし、特別な状況では、牧師や教会の教理問答教師が担当することもありました。
 教理問答教育の内容に関しては、例えば、1586年の「ハーグ全国総会」の定めたところによれば、低学年のクラスでは使徒信条、十戒、主の祈り及びその他の祈り、中級クラスに進むと教理問答、福音書や書簡を読むことなどを教えることが求められました。さらに一般的には聖書歴史、教会史も教えられました。祈りに関しては、朝夕の祈り、食前食後の祈りなどの訓練がなされ、詩編歌を歌うことも教えられ、それによって教会の公同礼拝の参加への備えがなされたのです。
 教材としての教理問答書に関しては、1618−19年の「ドルトレヒト全国総会」は、初級の生徒には「ABCブック」、中級の生徒にはファウケリウスの「キリスト教要理」、高学年には「ハイデルベルク信仰問答」を指定しました。これは一例であって、前回家庭で用いられた教理問答に多様性があったように、学校でも様々な教理問答書が使用されたのです。
 教理問答教育の方法ですが、1618―19年の「ドルトレヒト全国総会」が指示していますように一般的には「記憶」が重視されました。教師の前で暗誦して言えることが要求されました。成績優秀者は教理問答説教がなされる教会の教理問答礼拝の中で暗誦を実演することが求められました。


III. オランダ改革派教会のカテキズム教育と「教会」

1. 聖日午後の教理問答礼拝の確立
 オランダ改革派教会の契約の子の教育のトライアングルの第三は「教会」です。「教会」におけるカテキズム教育は、何と言っても聖日の午後に行われた教理問答礼拝が中心的役割を担いました。
 オランダにおいて、聖日の午後に教理問答に基づく礼拝がなされるようになったのは歴史的には1570年前後からです。教理問答礼拝に関連して、1568年の「ヴェーゼル協議会」また1571年の「エムデン大会」は、どのカテキズムを用いるかの選択の自由をまだ認めていました。1574年の「ドルトレヒト地方大会」はハイデルベルク信仰問答の使用に言及しています。1578年の「ドルトレヒト全国総会」及び1581年の「ミッデルブルフ全国総会」はハイデルベルク信仰問答を用いることを、またフランス語を使用するワルン教会に対してはジュネーブ教会信仰問答を用いることを定めています。1586年の「ハーグ全国総会」はハイデルベルク信仰問答の使用を決定し、それ以来教理問答礼拝とハイデルベルク信仰問答は一体的なものとなったのです。
 当初の頃は、教理問答礼拝と別個に特に子供たちのための教理問答教育がなされていたわけではありませんでした。むしろ、子供たちも教理問答礼拝に出席することが期待され、学校の教師たちには子供たちを教理問答礼拝に導くことが要求されていました。この点から、すでに言及しましたように教理問答礼拝の場における子供たちの教理問答の暗誦が実施されていた事情も理解していただけるでしょう。
 教理問答礼拝自体はオランダ改革派教会の教会形成にとって重大な意味を持つと考えられていましたので、これを定着させるために歴史的にはかなり粘り強い努力が傾けられました。中会は教理問答礼拝の実施状況について牧師たちに報告させたり、中会自身が乗り出して状況把握に努めるという事態も起こっていました。1586年の「ハーグ全国総会」や1618−19年の「ドルトレヒト全国総会」は毎聖日午後の教理問答礼拝の実施を義務付けることにもなりました。たとえ、牧師や学校の先生そして彼らの家族、さらに子供たちしか出席しなかったとしても教理問答礼拝を実施することを要求したのです。
 これらの動きからも察せられますように、教理問答礼拝を根付かせるのに困難が伴っていたようです。一例を挙げれば、1606年の「ウトレヒト地方大会」によれば、27教会のうち教理問答礼拝を実施していたのは3教会のみでした。これは例外ではなく、他の所でも同様な状況にありました。その理由としては、牧師の能力や怠慢の問題、教理的差異の問題、安息日聖別の軽視、公権力が非協力・・・等々の問題点を挙げることができるでしょう。
 このような困難さが伴ったにも関わらず、中会は教理問答礼拝のために牧師たちを訓練し、ハイデルベルク信仰問答の解説書なども用意しました。また中会は、教理問答礼拝がどのように実施されているか絶えず監督し、それを怠っている場合には戒規の執行さえいといませんでした。公権力も安息日の聖別を軽視するものに対する方策を講じ、協力いたしました。このような努力の積み重ねによって、17世紀の後半には教理問答礼拝は一般的にほぼ定着することになります。つまり定着までに少なくとも百年近い年月を要しているのです。
 教理問答礼拝の順序は地域によっていくらかの差がありました、一般的には次のように行われました。
 (1) 聖書朗読
 (2) ハイデルベルク信仰問答の朗読
 (3) 教理問答説教
 (4) 子供たちによる信仰問答の暗誦

2. 教理問答礼拝とは別個の教理問答教育の定着化
 教理問答礼拝と並んで、やがて子供たちの教理問答教育が別個に行われるようになりました。これは、元々は、学校にどうしても行けない子供たちもいて、それを補う意味で学校に代わる教理問答教育の場として考えられたものです。しかし、もう一つの重要な理由としては、教理問答礼拝が子供たちに適合するには少し難しすぎるという実際的な問題がありました。そのために教理問答礼拝とは別の教理問答教育の場の必要性が自覚されるようになりました。すでに1618−19年の「ドルトレヒト全国総会」はハイデルベルク信仰問答の解説がキリスト教教理の最初の踏台としては子供たちの能力に余ることに触れています。しかし、その時にはまだ教理問答礼拝とは別個の教理問答教育をもたらすには至っていませんでした。
 別個の子供たちの教理問答教育の試みが見られるようになったのは、1620年頃です。その頃から、中会の調査でその必要性が認識され、地方大会でも論議の対象にはなっていました。17世紀半ば頃から中会は教理問答礼拝とは別個の子供たちの教理問答教育を実施するように各個教会に義務づけるようになっています。しかし、1673年の「ハーグ地方大会」が報告するところによれば、この時期になっても子供たちの教理問答教育を実施していない教会があったことがわかっています。実際上、各教会において教理問答教育と並んで別個の教理問答教育がなされるように徹底したのは、やっと17世紀の終わりぐらいのことです。この点でもやはり長い年月が必要だったのです。

3. 教理問答教育の実際
 子供たちの教理問答教育の実際の状況は、時間的には聖日午後の教理問答礼拝の後で持たれることが多かったのですが、後には週日に、月曜から土曜まで教会の事情によって色々異なって実施されるようになりました。
 場所的には、会堂、聖歌隊の部屋、小会室、場合によっては学校や孤児院などが使用されました。時間的には一時間ぐらいの長さでしたが、ヘウスデン教会を例に取れば、午後4時から−5時半までは女子のクラス、5時半から−7時までが男子のクラスとして行われました。クラス編成は、男女、年齢別でなされ、場合によっては経済的に貧しい子供たちのクラスが別に編成されることもありました。
 教理問答教育の教師としては、牧師はもちろんですが、教理問答教師(神学教育を受けていないが、小会によって受け入れられた伝道者)、女性教理問答教師(特に女子の教理問答教育を担当する)、牧師候補者、また教授たちがその責任を担いました。
 教材としては、すでに家庭や学校における教理問答教育のところでも挙げた様々な教理問答が使用されました(具体的な教理問答の名はすでに挙げましたので、ここでは触れません)。これは家庭と学校と教会の一体的関係からすれば当然理解できることです。
 教会の教理問答教育を終えて、信仰告白をするのは初期には14才頃でしたが、後になると遅くなり16歳から18才までが普通になりました。
 しかし、以上で教理問答教育が全部終了したわけではなく、信仰告白を願い出ていざ聖餐にあずかろうとするとき、そこでも「信仰告白教理問答教育」を受けねばなりませんでした。期間はいくらかの差がありましたが、例えば1646年のアムステルダムでは8週間にわたって、1655年頃のアルンヘムでは4週間にわたって週二回づつの教理問答教育を受けねばなりませんでした。さらに、陪餐会員になって後も、毎聖日の午後の礼拝でハイデルベルク信仰問答の説教を聞き続け、そのようにして生涯にわたって教理問答教育を受けつつ、教会生活を過ごすことになります。


IV. 現在のオランダ改革派教会におけるカテキズム教育
 これまでオランダ改革派教会のカテキズム教育を歴史的な側面から概観してきましたが、現在のオランダ改革派教会のケースについて少し触れておきたいと思います。ただし、筆者が具体的に知っていますのは「解放派オランダ改革派教会」(GKNV)の状況で、それをそのままオランダ改革派教会全体に当てはめるのは少し乱暴ですが、オランダ改革派教会の歴史的伝統の一端は知っていただけるでしょう。「解放派オランダ改革派教会」は1952年にカイパーなどが属していた「総会派オランダ改革派教会」(GKN)から分離した教会で、K.スキルダーがその中心的指導者でした。会員数は10万人ぐらいです。ここでは、特にこの教派の「学校」と「教会」の問題を取り上げることにします。
 オランダでは19世紀後半に公立学校と私立学校の平等性が法律的に認められ、信徒たちの意思によって学校を設立することが原理的に可能になっています。私が属していたカンペンの改革派教会も900人ほどの会員数でしたが、同教会の会員立として幼稚園・小学校を持っていました。国家からの援助はありますが、相当の経済的犠牲を払うことなしには経営は成り立ちません。それでも改革派信仰に基づく教育を行うために会員たちはその犠牲を引き受けていました。筆者の子供たちがその学校に通っていた頃は、2学年の合同クラス編成でそれぞれクラスが大体20名ぐらいでした。日本で言えば分校程度の規模です。教派として自分たちの学校の教員養成機関をもっていましたので、教師はそこで訓練された人たちでしたし、同じ教会の会員でもありました。教科書も教派として独自のものを用いていました。全体が改革派信仰に基づく教育でしたが、信仰面の教育としては聖書を教えることが中心で、低学年では特に詩編歌を暗誦させることに力を入れていました。このため主の日礼拝の子供たちの詩編歌の賛美は実に力強いものでした。いずれにしても、子供たちの信仰教育を自分たちの手で行うという強い決意と熱心に溢れていました。
 教会のカテキズム教育は、伝統に忠実に行われていましたし、今もそうです。小学校を卒業する年令から6年あるいは7年の間教理問答教育が施されます。相当の年数ですからそれが徹底して行われることは容易に想像できるはずです。教会員の両親にはこれに出席させる義務が伴います。クラスは、日曜日ではなく(日曜日には教会学校はありません)、週日に週一回夕方から夜にかけて持たれ、年令別に分かれて、教理問答教育が行われています。教理問答教育といっても、教理問答だけではなく、契約の子の包括的な教育です。例を挙げますと、聖書知識、聖書歴史、教派の信条すなわちハイデルベルク信仰問答、ドルト信条、ベルギー信条、自分たちの教派の歴史を含む教会史等々、それぞれ年令に合わせたテキスト・ブックによって教育を行います。このような訓練を受けた後に、信仰告白に至ります。したがって、教理教育を終了すると、日本の場合でいえば神学校の一年生ぐらいの信仰的知識は持つことになります。このような教育が、説教の水準を高くし、真理にしっかりと基礎づけられた、歴史に耐える教会を形成させることになります。

結び
 オランダ改革派教会における契約の子の教育の状況を歴史的に追ってきました。オランダ改革派教会の持っている特有な歴史的状況がありますから、当然そのままわたしたちの教会に当てはめることはできません。しかし、歴史を超えて、信仰的には契約信仰という共通の基盤に私たちは立っています。従って、オランダ改革派教会の特殊性を十分に承知しつつも、今まで記してきたことが日本キリスト改革派教会の契約の子の教育の今後を考える上で必ず何かのヒントになるはずだ、と筆者は確信しています。そのようにこの小さい一文が用いられることを心から願っています。

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