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東部中会教会学校教師研修会発題講演

第2号論文  契約の子どもの教会教育   (2001年7月)
                              吉岡良昌(大会教育委員、東部中会教育委員)


東部中会教会学校教師研修会プログラム

2:30-3:20 開会礼拝と発題講演
  賛美歌 461 
  聖 書 Tペトロ2:9-10
       マルコ10:13-16
  I. 教会教育の戦略的課題
  II. 家庭教育の大切さ
  III. 両親教育の必要性
  IV. 信仰・希望・愛の態度教育
  V. 聖書の用い方
  VI. 信仰共同体は愛の育成の場
  VII. こどもの礼拝(信仰の育成)の課題
  VIII. 教会学校(希望の育成)と親の協力

3:30-4:20 分団での話し合い
  討議課題
  @教会教育の礼拝共同体的教育機能vs学校化
  Aキリスト教教育主事的働きは必要か否か
  B教会は両親教育をしてゆく責任があるとすれば、どのような方法が考えられるか
  Cこどもの自己愛を育てることは罪人の教理と矛盾しないか
  Dこどもの礼拝参加をどのように具体化できるのか
  E教会学校と親はどのように協力したらよいのか

4:30-5:00 全体会(分団の書記の報告による)

  閉会祈祷 主の祈り



発題講演 「契約の子どもの教会教育」

はじめに
 聖書/Tペトロ2:9-10から、教会教育の基本を確認しておきます。
 生きた石、聖なる国民として、キリスト者は個人として、また、共同体として、神のみわざの証人として働くように召されていますが、その際、この働きを導く真の教師は神であり、聖霊であり、キリストです。この神による教育のうち、共同体としての神の教育が教会教育と呼ばれる内容を指しています。教会教育としていろいろ論じられても結局大事なのは、成長させてくださる神の働きです。その意味で、教会教育は、霊的な教育であり、祈りと聖霊の導きなくしては、ありえません。この大原則をまず、最初に確認しておきます。
 次に、聖書/マルコ10:13-16から、契約のこどもに関する基本的な聖書理解の確認をしておきます。
 神の国とはただ人間が受け取るだけの神からの賜物です。こどもの無力から生じる依存性や受容の態度がここでは弟子の手本とされています。「純真無垢な」こどもとしての評価ではありません。このこどもは神の国の「契約共同体」の一員として、また信者の家族の一員として、神の救済活動としての契約共同体の教育の下に置かれています。単なるこどもが無制約的に神に受容されているわけではありません。
 このように、このテキストではこどもが共同体としての家族の視点から位置付けられています。同様に、Tコリント7章の信者のこどもは聖であるという主張や、使徒言行録2章の幼児洗礼の示唆も、信仰共同体の枠組みの中で育てられ教育されることが前提となっていることを忘れてはなりません。幼児洗礼は、割礼のように、神の恩寵による救いの契約の確認の証印です。こどもは親との霊的有機的一体性の基盤の上で授洗し、推定上再生者と見なされています。従って、教会はこのこどもを会員として受容し、信仰告白に向けて信仰教育を施す責任を神に対して負っています。


I. 教会の礼拝共同体的教育機能 vs 教会の学校化

 まずはじめに教会全体の教育をめぐる課題について考えます。
 教会規定の中に訓練規定があります。それは、教会は教会員を訓練してゆく責任があるという主旨で書かれています。この訓練disciplineも教会教育の一つと考えられます。訓練規定の主な言葉を拾ってみます。

第1条「訓練は、教会の会員を教え、導き、教会の純潔と繁栄とを増進するために、」
第4条「教会は、母がその子らをかれらの益のために矯正するごとく、教会の子らがキリストの日にとがなきものとして聖前にたちうるように行為すべきである。」
第5条「教会の子らの霊的栄養、指導および未陪餐会員の訓練は、本来親達に神から委託されており、親達は、その義務を神と教会に対して忠実にはたさねばならない。また、真の信仰を家庭において振起させることは、教会の主要な義務である。」
第6条「教会は聖書と教理問答書において子らを教えるために特別のそなえをすべきである。この目的のために、小会は、その権威の下に教会学校または聖書学校を設置し指導すべきであり、その他の有益な方法をも採用すべきである。」

 以上、訓練規定は契約のこどもの教育にも触れていることがわかります。訓練規定は、会員の教育訓育と戒規との両側面から叙述されています。積極的な教育に関わる規定は上記の箇条を含めて2章で終わり、残り3章から19章まですべて戒規と教会裁判に関わる叙述です。これは何を意味しているのでしょうか。恐らく必要が生じてこのような形に成文化されたのでしょう。しかし、教会教育、キリスト教教育の貧困さを語っているとも受け取れます。教会の訓練、教育と言うと、まず、消極的・否定的な戒規や裁判をイメージし、積極的な、豊かな成長することの喜びや希望がイメージされて来なかったということでしょう。
 しかし、これからは教会教育の積極面に着眼する必要があると思います。牧師の活動としての説教・礼拝・洗礼式聖餐式の礼典執行や、賛美歌の指導、牧会活動等々は、すべて教会教育です。長老・執事の教会活動も、年代別の各グループ活動、委員会活動もやはり教会教育です。これらすべては、キリスト教会という信仰共同体が会員の霊的成長をめざして行っている教会教育であり、キリスト教教育なのです。これを礼拝共同体的教育機能と呼ぶことにしましょう。
 これに対して、教会活動のこれらの教えあう活動すべてを学校schoolと考えて教会学校church schoolと呼ぶことも可能です。いわゆるCS「教会の学校化」という考え方です。
 SS(sunday school)からCS(church school)という名称変更の運動の背後には、日曜学校だけを学校と呼ばず、教会活動の教育的側面すべてを学校と呼ぼうと考え、CSと言うようになったと思われます。結果的には、従来のSS日曜学校をCS教会学校と代弁しているに過ぎないように受け取られてきましたが。
 昨年のCS教師研修会で、岩崎長老は「教会教育(学校)の活動にも戦術的な面と戦略的な面があり、戦術とは、個々の技術、教師の教え方や教材の作り方等を言うが、戦略とは、教会全体が教育方針を立て、プランを練り、組織をつくり、動かすことを言う」、と述べています。そして今、改革派教会が問題にすべきは、今後の教会教育の戦略を立て直すことである、と述べています。しかもこれは教会のトップの責任であるとも言っています。
 ちなみに松戸小金原教会は、教会全体の教育を司る教育委員会を教会学校委員会と名づけ、成人男子会や婦人会をも教会学校と見做して、教会の教育機能を学校という名称で統一していることが特徴です。このように、教会学校活動を教会のトップである小会のポリシーの下でしっかり指導していることがわかります。

 以上述べてきたように、まず第一に教会全体の教育的活動を積極的に捉え直すこと。そして第二に、討議課題として掲げたように、教会教育全体を礼拝中心の信仰共同体として位置付け、その共同体としての教育的機能の豊かさを追求してゆく姿勢をとるのか。もしくは、教会の学校化を図って、教会の教育的機能を学校として再組織し、教会学校の充実を図るのか。あるいは、その両者の中間を採って、礼拝共同体的教育機能と学校型機能との統合形態としての教会教育像を描くのか、今トップのポリシーが問われているということです。この戦略を明確にして、教会教育のヴィジョンを掲げ、その中に、日曜学校を位置付けない限り、CSの衰退は免れ得ないということです。
 現在の改革派教会の現状は両者の統合というより、両者の混在というべきであろう。牧師や教育委員会の長は小会のメンバーとして、信仰共同体としての教育機能を代表しているし、教会学校校長はいわゆる教会学校の責任者として、学校制度を導入しています。そしてこの両者はそれぞれの活動をしており、両者の関係については余り深く自覚されていません。
 統合ではなく、混在であると幾分批判めいて述べた理由として、更に次のことが指摘されるからです。それは以前、「まじわり誌」においても指摘したように、式文や礼拝指針を読む限りにおいては、教会学校校長の任務は、日曜学校の責任者というよりも、教会教育全体の責任者の立場として理解されているということです。
 教会学校の目的はキリスト者の成長と完成であり、その目的に従って、契約の子らを訓育し、成人会員を教え、さらに未信者と未信者の子らに教育的伝道を行い、その教会学校の責任者を校長と呼び、その教会学校校長の任職式を執行できるように式文が整えられています。
 この考え方は日曜学校をのみ教会学校と呼ぶ考え方と全く異なっています。教会全体のキリスト教教育が視野に入っています。この発想のもとにこれまでアメリカを中心になされてきた教会教育のシステムが、いわゆる宗教教育主事(キリスト教教育主事)の導入なのです。この導入をして教団では早や40年が経っていますし、福音派の諸教会でも導入しつつあります。しかし、改革派教会は規定に定めていても未だ実行していないし、また、この種の議論さえこれまで為されて来ていないのが現状なのです。私も最近この事実に気づき、事の重大性を思い、大会教育委員会で議論を始めているところです。


II. キリスト教教育主事的働きは必要か
 キリスト教教育主事(Derector of Christian Education)という名称は改革派ではまだ聞き慣れない言葉ですが、日本キリスト教団では1960年より養成が発足し、200名近い人材を派遣しています。キリスト教教育主事とは、教会の教育についての機能を担う専門職をさします。教会の礼拝共同体的教育機能や教会学校の働きを導く指導者のことを指しています。現改革派の礼拝指針や式文によれば、教会学校校長の職務がそれにあたります。しかし、現教会学校校長は任職式をしたりして職務に就いている例は極く少数なため、すなわち、専門的教育を受けていないため、日曜学校の校長としての機能は果たせても、教会全体の教育プログラムを立案したり、実行したりする能力に欠けているというのが実情です。まだわたしの個人的な意見なのですが、今,改革派神学校が新しいカリキュラムを導入し、女性の献身者、奉仕者を募集し始めていることは、キリスト教教育主事の養成につながる可能性があるのではないかということです。教会学校校長という名称を保持してもいいのですが。各教会に1名専門家スタッフを置くことは、経済的にも不可能なので、初めに、各中会に数名キリスト教教育の専門家が派遣されるようになれば、中会全体の教育的課題や各個教会の教会教育がより豊かに遂行される道が開けるのではないかと期待しているところです。
 教会は伝道活動と教育活動を通して成長してゆくことを考えた場合、キリスト教教育主事的働きが教会の活性化につながることは容易に予想できることです。


III. 家庭教育の大切さ

 東部中会創立55周年記念の長期計画の中で、改革派信仰の継承として、
「少子社会の中でキリスト者として結婚を重んじ、家庭形成に励み、神の愛に基づく契約の子を育てることに尽力する」
と書かれています。
 コメニウスという人は「誕生前の学校」と称して、人間形成はまず、神聖な結婚の段階から問題とされなければならないと言っています。神の国の進展のために、「神の子孫」となるべき、こどもの誕生と養育を将来的課題と考えて祈る信仰深い青年男女の結婚からすでにこどもの教育は出発していると言うのです。共に信仰的価値を共有し、共に祈る信仰者同士の結婚を真剣に考え祈るべきではないかと思います。
 親がこどもの教育に有利な条件としてルーシー・W・バーバーは『就学前のこどもの宗教教育』の中で次のように述べています。

1. 両親は本質的にこどもに最善のことを期待する。
2. 親となることは、こどもに何かを教える機会を提供する。
3. 両親はこどもの自然な教師である。
4. 両親は誰よりもこどもと身体的接触をする機会に恵まれている。
5. だれよりもこどもについて熟知している。
6. こどものユニーク性を知っている。

 まじわり8月号で田上雅徳氏は信仰生活にもマザー・ビヘイヴィア(血肉化した信仰としての、母から伝えられた立ち振る舞い)というべきものがあるのでないか、と述べています。これは信仰における態度教育のことであり、ウエスターホフが言う、「経験的信仰」を指しています。経験的信仰とは、親の態度やしつけによって体験的・行動的にこどもに信仰が伝えられるということです。幼児に対して神の愛・恵・ゆるしは親の態度によって伝えらます。家庭でこどもと一緒に祈り、賛美し、礼拝する体験ができることは親にとっても大きな救いとなります。信仰が足りないと自分の力不足を嘆く親も、礼拝を通して神の働きと力によって補うことができるからです。
 幼稚園の創立者フレーベルは『人間教育』の中で印象深い言葉を述べています。乳飲み子は母のお乳を飲み込むばかりでなく、母親の人格全体を飲み込んでいると言います。それほど、親の態度、霊性、生き方が過不足なくこどもに伝えられるということです。
 ホーレス・ブッシュネルの『キリスト教養育論』も契約の子の教育をする場合の参考となります。「こどもはクリスチャンとして成長すべきであって、決してそれ以外の者として自分自身を知るべきではない。」という命題を掲げています。これは、こどもは罪のうちに成長すべきであって、成熟した年齢になって回心をすべきだという当時のリバイバル運動への反論を意味しています。
 ブッシュネルによれば、こどもに罪の自覚を集中させ、回心を強要する日曜学校の教育方法は、こどもの魂をかたくなにさせ、心理的損傷を与えるだけだと言います。そういう方法ではなく、神の救いの恵みが、教会や家庭という有機的な共同体のつながりを通して、聖霊が働くことを通して、こどもの心に注ぎ込まれることから、キリスト教教育は出発すべきであると説きます。聖霊の働きかけとしての霊的力や雰囲気は、信仰者の親を通して、家庭の生活を通してこどもに伝えられてゆくからです。クリスチャンホームは神の恵みの手段となり、家庭のテーブルは聖なる儀式となり,家庭の生活は救いの力の要素となると言っています。
 それでは、何故、就学前のこどもの宗教教育は態度教育なのか。幼児の認識能力の発達について研究したピアジェの理論によれば、就学前のこどもの認識的発達段階は感覚運動的段階であると言います。幼児は見たり、聴いたり、触ったり,味わったりして、感覚器官を通して、また、身体を動かすことによって学習します。このように感覚器官及び筋肉運動と環境との相互作用によってこどもは学習しています。そして、この際、態度は認識と感情と筋肉運動のすべてを結びつけているものとして機能し、しかも、価値や信念は態度によって伝達可能であるため、態度教育が有効であるということになります。
 こうして、就学前の契約のこどもの教育の主役は親ということになります。この時期のこどもにとって親の権威は絶対的であり、小さな神のごとき存在として受け取られているということも重要な要素となります。
 家庭教育のかなめとは何でしょうか。それはこどもにとって「絶対的な受容の場所」であり、「居場所」であることではないでしょうか。「自分は守られている」という基本的な信頼感を育む場所であれば、個々のしつけのほとんどが生かされてゆくのではないかと考えられます。
 最後に、態度教育の一般原則として,否定的な、何々してはいけない方式ではなく、肯定的な強化学習を心掛けるとよいと、バーバー氏は言います。「ぼくには力があるんだ。ぼくは価値のある人間なんだ。」と思えるように、一歩一歩力を築き上げてゆく方向に強化してゆくしつけが良いと考えられています。

 以上、就学前の契約のこどもの教育方法について論じ、家庭教育の大切さを説いてきましたが、それではこのような家庭での両親による信仰教育の大切さを説き、指導する人は誰かという課題が残されています。いわゆる両親教育の担い手は誰かと言う課題です。普通この責任は牧師にあると考えられるかも知れません。実際多くの牧師は、この仕事をしてきています。しかし、それも充分ではなく、助け手がいるということも考えらます。そこで登場するのがキリスト教教育主事ということになります。
 こどもにとっての権威者が親である期間中は、親による態度教育が決め手となるので、この親を助ける教会の働きが課題となりますが、小学生になる頃から、こどもにとっての権威の対象は,学校の先生等に移ってゆきます。親もそれほど完全ではないと子供ながらに理解してくる時期だからです。そうすると、今度は権威の対象として、教会の牧師や教会学校の先生の出番となりますが、今回はこの点については省略します。

 最後に両親教育について次のことを指摘したいと思います。それは、こども自身がおとなを親へと成長させてゆく力を持っているという事実です。注意深くこどもの要求に耳を傾ける親であれば、こどもが何を欲しているのか、およそわかるものです。こどもの要求に答える営みの中で、おとなは徐々に親にさせてもらえるのです。こどもから学ぶ親という一面も忘れてはいけないということです。


IV. 信仰・希望・愛の態度教育
 以下、家庭における契約のこどもの就学前のこどもの教育方法についてヒントとなることを紹介したいと思います。信仰・希望・愛についての親の態度教育の方法について述べたいと思います。
 信仰をもった親が愛情込めて赤ちゃんを抱きしめたり、要求に応じた世話をすることによって、その親はこどもに何らかの仕方で、信仰・希望・愛を教えていると考えられますが、もう少し、分析してその状況を考えてみます。以下、信仰・希望・愛を態度で教えてゆく方法についてバーバー氏の見解を取り込んで述べてゆきます。
まず、信仰を教えるのに、信仰的態度で伝えるためには、次の3点が目安となります。
(1) 愛し世話をしてくれる人に依存し、信頼する態度を養う。のちにこの態度が神に頼る前兆となる。
(2) 自然、天気、風景、植物、まわりの自然環境を楽しむ態度を養う。この態度は、自然の造り主なる神に感謝できる信仰的態度となる。
(3) 日常の出来事、起きること、寝ること,食事をすることなど、秩序のある生活態度を養う。この態度は神がいつも生活を守ってくださるという神の摂理信仰の前兆となる。
 この3点についての細かい説明は紙面の関係で省きます。

 次に愛について考えてみます。
 神を愛することと,隣人を愛することがキリスト者の目標となりますが、乳幼児の場合は自分自身を愛することから出発せざるを得ないということです。自己中心性の中に閉じ込められた状態で生まれてくる乳幼児にとってまず、大切なことは、自分自身が誰かによって受け入れられ、大切にされ、愛されるという経験をもつことです。
 ですから、自己愛から隣人愛へそして神への愛という順序で成長してゆくということです。自分を大切に思えない人がどうして他人を大切に扱うことができるでしょうか。自己を愛する人は隣人を愛し自己を嫌い否定する人は、隣人をも嫌い、否定するのです。もちろん、この愛の連鎖反応の根底に神の愛がまず注がれていることは言うまでもないことです。
 ですから、乳幼児に対して、「罪人」と呼び、自己否定を求めることは逆効果となります。「罪人」の自覚はもう少し成長し、自我の自覚が生じてからの課題となります。幼児洗礼を受けているこどもは、すでに霊的に神の愛と保護とゆるしの中に置かれ育まれていると信じることができます。このように、こどもの自己愛を育てることはキリスト教教育として正しいのかどうか、議論の余地があると思いますので、議論してください。

 最後に、希望の教え方について考えてみましょう。
 希望とは自己の将来への信頼、自分の未来に対して神の見守りを確信する態度と言えるでしょう。来るべき神の国への信頼を含むということで、希望はまた信仰や愛と不可分の要素です。6歳以下の乳幼児はまだ未来の感覚が育っていないのではっきりとは言えませんが、次の2つの態度が可能であるとバーバー氏は言っています。
(1) 人生への積極的態度・楽天主義的態度
 赤ちゃんは身体的・精神的欲求不満に陥ることがたびたび生じ、そのために泣きわめくことになりますが、この欲求不満が大人の世話によって解消されることを体験してゆくことが人生に対する楽天的・積極的態度を生み出す力となります。それから、恐れや怯えから開放される体験も希望的態度を養う力となります。
(2) 学習することの喜びに満ちた態度
 乳幼児は誕生と共に学習することを開始します。身体や、感覚器官を使って、この世界の探検の旅にでかけます。このこどもと環境との相互作用を「遊び」と言いますが、それはこどもにとっての真剣な学習を意味しています。この遊びに夢中になり、学習することの喜びを体験できることが、未来の可能性への希望へとつながってゆくのです。

 以上、信仰・希望・愛の態度教育について略述しましたが、教会はどのような助けを与えることができるのでしょうか。信仰の態度教育の対しては、教会の礼拝が大きな役割を果たすことができます。しかし、こどもが受け入れられる教会の礼拝のあり方については、改革派教会は未だ、途上であって、今後ともこどもの礼拝のあり方をめぐって改革されてゆかねばならないと思います。
 愛の態度教育についてはどうでしょうか。これは教会の共同体の愛の交わりが力を与えると思います。こどもは家庭以外に、教会の共同体のメンバーとして、年齢を問わずあらゆる種類の多くの人々に触れる機会が用意されています。この共同体に受け入れられ、家庭以外の第ニの「居場所」があるというこどもの体験は大きな成長のきっかけを作ることになります。今後の社会生活の基礎ともなるし、隣人愛の実践の場所ともなります。
 希望の態度はどうでしょうか。教会学校での学びの体験が学習することの喜びを一層成長させるはずです。教会は幼稚園や保育園に劣らないほどの絵本や図書を揃えて置くべきでしょう。聖書に関する幼児向け図書は特に充実させる必要があると思います。
 契約の子の親は、教会学校の先生になるか、ヘルパーの役割でもよいのですが、とにかく、教会学校を家庭教育の延長と考えて、親自身も積極的に協力する姿勢が求められていると思います。これは我が子にとっても素晴らしいことなのです。母も一緒に先生と教会学校に参加している姿を見て、こどもは教会への信頼感を持ち、安心して学習に励めるからです。


V. こどもの礼拝のあり方をめぐって
 東部中会55周年記念宣言・長期計画の中に、「各教会と中会は、礼拝におけるこどもの問題に取り組み、礼拝参加の在り方やこども礼拝の持ち方を工夫し考案する。」と書かれています。昨年のCS教師研修会で松戸小金原教会の岩崎長老は、「こどもは難解な大人向けの説教で忍耐するのではなく、平易でわかることばで、福音を聞く権利がある」と述べていました。
 大人の信仰生活の死活問題は礼拝生活であるように、こどもの信仰生活も礼拝を通して成長することは明らかです。そして主の日の礼拝を公同礼拝と称し、大人の礼拝とは正式には言っていません。ついうっかり大人の礼拝と言い間違えることはあっても、原則は大人もこどもも平等に神に招かれている公同礼拝とみなしています。
 しかし、現状はうっかり大人の礼拝としばしば呼ぶように、こどもを排除している大人の論理が支配していることがわかります。説教も大人向けです。それでは、こどもの礼拝はどうなるのでしょうか。大概、これが教会学校の礼拝で充分だとみなしていることが多いと思います。私の提案は、これを正式なこどもの礼拝というならば、大人の礼拝と同じだけのウエイトをもって、教会全体が公式に第2の礼拝として認め、尊重すべきであるということです。教会全体のこどもの礼拝に対する大人の意識が問われていると思います。
 私自身、こどもの礼拝の説教担当の時は、大人の礼拝以上に、真心をを込め,全身全霊で語るように努力しています。こどもは大人以上に私のやり方を見ているし、いつかは真似をするかも知れないからです。偽らざる自分を出す以外に道はないのです。


VI. CS教師の在り方
 最後にCS教師の在り方姿勢について一言述べて終えたいと思います。教師だからといって教える人と考えなくてよいのではないか。学習する人、学ぶ人としての姿勢を示せばよいのではないか。教師は自分自身の信仰の成長のためにも生涯学習する人であれば良い。真の教師はただ一人イエスキリストのみであるから。
 このイエスについて、生涯学び続ける人であれば、それで充分なのではないか。教師もこどもと一緒に信仰生活に励んでいるという意識でやってゆくことが大切ではないでしょうか。教師は教える者というよりも、こどもから教えられ、こどもから学ぶ用意のできている人を言うのではなかろうか。そういう意味で、教会は教える共同体というよりも、神を唯一の教師とする学ぶ共同体と言い換えた方が良いのかも知れません。


  ※2000年9月10日に開催された東部中会教会学校教師研修会の発題講演の要旨です。
   承諾を得て、日本キリスト改革派教会東部中会教育委員会
   『2000年教会学校教師ノー ト第24号』から転載しました。

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