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創刊号論文  響かせていくこととしての信仰教育 (2001年4月)
                                          三川栄二 (稲毛海岸教会牧師)


 親から子への信仰継承教育を、教会は古くから「カテキズム教育」として考えてきました。しかし、カテキズム教育と称することによる誤解が、一般によく見られます。それはカテキズム教育とは、カテキズム(具体的にはいわゆる教理問答書)を用いてなされる、いわば「教理教育」であり、それはもっぱら幼児洗礼を受けた未陪餐会員たる青少年を信仰告白と陪餐に至らせるときに、またそのためになされる教育であり、それは教会でなされるものとする誤解です。カテキズム教育というのは、本来どういうものであるかを明らかにするために、まずカテキズムの意味について考えてみましょう。

1. 「カテキズム」という言葉の由来と意味
 「カテキズム」という言葉は、ギリシャ語のカテーケーシスに由来します。これはエケーオー(鳴らす、響く、響かせる、反響させる;エーコー[響き、こだま]の動詞形)に、前置詞カタ(下に)がついた言葉で、「耳に響かせる」「肉声をもって教え込む」「口で教える」との意味を持っていました。このカテーケーシスという言葉は、新約聖書においては、「信仰上のことについて教える」こととして用いられます(ロマ2:18、1コリ14:19、ルカ1:4、使徒18:15、ガラ6:6)。使徒教父時代になると、それは「信仰生活に入ることを志している者への教育」をさす言葉として用いられました(クレメンス第二書簡17:1)。古代教会以降は、それは「信仰の道に入る者への一定期間の教育」、「口頭教授」を意味するものとなりました。そこから今日カテキズムを「教理問答」と理解したり、訳したりするようになっていきますが、この言葉には本来「問答」といった意味はありません。口伝えにして教えるとか、響かせるということは、単に教理をオウム返しにさせて覚えさせるといったことではまったくなく、むしろそのような機械的、非人格的な教育を排した、「人格から人格へと伝えられていく教育」として考えられてきたのでした。教育する側の中にもっている、キリストにある生命と信仰の喜びとが、教育される側に「響かせられて」いき、それが今度は相手の中で「反響し続ける」ものとなっていく、また互いの間でキリストにある信仰とその喜ぴとが反響しあっていく、そしてその生命がその人の生活全体にわたって「響き渡り、反響していく」ようになる、そのような教育がカテキズム教育の意味することです。ですからそれは人格から人格へと、しかも生活の中で、生活を通してなされていく全人的教育なのです。「系統的に信仰を教え、それも理論を旨とするよりも、じかに教理を生活に滲み込ましめる実践の教授、口から口ヘと伝えられる信仰生活の実践の手引、教理を踏まえた全人教育」であるということができます。それが最も有効な場所は、いわずもがな家庭でありましょう。

2. カテキズム教育の「問い」と「答え」
のダイナミズム
 カテキズム教育が「信仰問答」教育と短絡化される原因の一つは、そこで用いられた書物が問答形態が多かったことにも由来します。しかし、この問答形態で意図されたことは、ある一定の教理内容を「教え込む」とか「覚え込ませる」といった教条的なものであったのではなく、そこには「生きた会話」がありました。しかもそれは親と子との生きた交わりの中での会話なのです。子供の素朴な質問に答える、しかもそれを親自身の信仰の告白として答えていくという親の姿が、そこには反映されているのです。ここでの問答というのは、子の質問に答える親の信仰告白なのです。しかもそれは親としての慈愛に満ちた、また子を理解した中でなされる応答、会話の中での教育です。子の理解力に合わせてなされる、生活体験の中での信仰教育なのです。そこでの問いと答えには、生きたダイナミズムがあるのです。

 この問答形態というのは、古来より洋の東西を問わず、教育の基本的な方法でした。ソクラテスの産婆術やプラトン、アリストテレスと弟子たちとの会話の中での教育、また論語にみられる孔子と弟子たちとの会話の中での教育、さらには中世におけるスコラ学の教育形態が、まさに問答によるものでした。例えぱアンセルムスの「プロスロギオン」はガウニロとの対論として展開されていますし、「クール・デウス・ホモ」は弟子ボソーとの会話です。またトマス・アクィナスの「神学大全」は初学者のための神学入門、手引きとして執筆された、問答形態の教科書、いわば巨大な信仰問答なのです。問答形式による教育は、教育の基本、原点のようなものであるわけです。そこでは相手の認識能力に合わせて行われ、学習者自身の真理認識に至る過程を重要視します。相手に考えさせること無しに、初めから満点の答えを提示するのではなく、「答えに至る過程」を大事にします。学習者自身が考える、考えさせられる、その苦闘の中で自ら真理に到達していくことを求めたのです。真理認識に至る過程があってこそ、その真理を自らのものとして体得しうるからです。それが「学習」ということなのです。信仰教育、即ち聖書真理の体系的理解とそれに対する主体的告白と応答のための教育も同じです。そこではその真理を、自らのものとして告白し、応答していくことが求められる、そのためにはその真理を認識していくための過程が大切なのです。そのために「問答」形態が取られ、用いられました。そこで信仰教育を考えていくとき、もう一度この問答形態による教育の意義を再考する必要があります。

 問答形態による信仰教育は、既に聖書にみられるものです。申命記6章では「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」(6、7節)と求められています。これは即ち信仰教育が、ある一定の時間内だけでのものではなく、寝食や仕事、休息といった生活の全てにおいてなされることを求めている言葉です。神に向かって生きる生活の全体が、即ち信仰教育であるのです。しかもその教育方法は、「将来、あなたの子が、「我々の神、主が命じられたこれらの定めと掟と法は何のためですか」と尋ねるときには、あなたの子にこう答えなさい。「我々は、云々」」(6章20節以下)というように、子が親に問い、その問いに親が答えていくことによるのです。この教育形態はイスラエルの伝統でした(出エジプト記13章14節以下、ヨシュア記4章6節以下)。またこれは主イエスがなされた弟子教育の方法でもありました。弟子が主に問い、主がそれに答えられる、そうして主は弟子たちを教えられたのです。こうして子が親に問い、弟子が師に問う、それに親また師が答えていくことで、彼らが信仰の真理に至らせられる、この生きた問答の中で信仰は教育されていったのです。しかもそれは寝食を共にする生活のただ中で、生活全体をもってなされたのでした。そこには親と子との、また弟子と師との血の通った愛と生きた信頼の関わりが前提されています。
 カテキズム教育でなされる問答形態の教育は、このような血の通った、生きた、生活実践の中での、人格的関わりにおけるダイナミックな教育なのです。教理条項をオウム返しに伝達させていくための問答なのではなく、むしろ教える側の中にある生きた「信仰の響き」を、教えられる側に「響かせていく」こと、さらにはその人の中においても「響き続けていくように響かせていく」ことこそ、問答形態でカテキズム教育がなされていくことの意義なのです。こちらの内にある信仰の生命と喜びとが、相手に反響させられていく、それが人格から人格へと伝えられていくための問答なのです。ですから信仰問答書の問答は、それを正しく伝えていくための骨子、概要なのであって、それをそのまま教えこめば良いものなのではなく、それを教え語る者が生きた自分の信仰と生活の内に、それを肉付けしていくことがそもそも求められているものなのです。問答書を手引きとして、親が子に、教師が生徒に、自分の信仰とその喜びとを告白し、証していくこと、それがカテキズム教育なのです。そしてこのカテキズム教育の本来の場は、親と子との共同生活と神奉仕の場である「家庭」という小さな教会であり、またその小さな教会が集められる「教会」なのです。いわゆる堅信礼教育は、家庭における信仰継承のカテキズム教育を統合し完成させて、教会における生涯教育へと橋渡ししていくものであって、そこでは家庭での信仰教育が既に前提されているのです。しかしどちらも別々のものではなく、カテキストである親や教師が、自らの信仰の告白として、問答書に肉付けしながら、それを子に生徒に響かせていくことが求められているのです。

 その一例をルターの小教理問答に見ていきましょう。徳善義和氏はルターの問答を、「子供がお父さんにした質問」として特徴づけます。「あなたは主なる私の他なにものも神としてはならない」。それに対して、「父さん、これなあに」と子供が聞く、すると「父さんはね、おまえと一緒にだよ、何ものにもまして神様を畏れて、愛して、信頼するんだよ、神様がいちばんだ」と父さんが話をして、子供に向かって自分の信仰を証し、告白している答えであるとしています。「私は天地の造り主、父なる神を信じます。「父さん、これなあに」。「父さんは信じているよ、神様がこの父さんを造ってくださったことをね、全てのものと一緒にだよ」」(「障害者神学の確立をめざして」、p91、92)。この問答は、子が親に信仰を問い、親がそれに答える形で、自分の信仰を告白するものであるとするのです。それは親としてのルターと、当時二才前後であった長男ハンスとのやり取りを彷彿とさせるものがあります。執務している部屋にハンスが遊びに入ってくる、そこでルターは仕事の手を休めてハンスを膝の上に乗せるのです。するとハンスが尋ねる、「父さん、神さまって何」。その質問に目を細めながら答えていくルターの姿が浮かんでくるようです。カテキズム教育の原点は、この親と子との愛と信頼に満ちた、神への信仰を中心にした交わりの中にあります。その教育とは、生活の中で証しされていく親自身の信仰告白なのです。そしてそのようにしていわば「口移し」で教えられていく教育の中で、信仰の言葉、それも恣意的なものではない教会の信仰の言葉を、自分の信仰の言葉として身につけさせていくことなのです。信仰教育が問答形態でなされることの意義はそこにあります。口移しで教えられる、それは単なるオウム返しではなく、自分の信仰を答える練習をするのです。「もともとは他者の言葉であるはずなのに、それを暗唱するうちにその人の中に内在する言葉、外からの言葉であったのに内からの言葉となってしまうような言葉」(加藤常昭、「雪ノ下カテキズム」、p364)。そのような信仰の言葉をもって、しかも教え語る者による生きた信仰の証しと告白をもって教えられる言葉によって、「自分の責任で、自分の言葉として信仰を言い表す練習をさせるのです」。こうして教会の信仰の言葉が内在化されていくことによって、信仰と生活が恣意的ではないものとして成長せられ、責任ある主体的応答としての信仰と生活が確立されていくのです。

※承諾を得て、日本キリスト改革派教会東部中会教育委員会
  『1996年教会学校教師ノート第20号』から転載いたしました。

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