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創刊号(第1号)まえがき (2001年4月)     相馬伸郎(名古屋岩の上伝道所宣教教師)


 一昨年そして昨年(2000年)と、「教会学校研修会」の折り、「日本キリスト改革派教会としての『教案誌』があればどれほど良いであろうか」との声を多数伺いました。さらにさかのぼれば、「中部中会40周年記念信徒大会」の分科会、「教会学校の教育と伝道」においても同様の声が聞かれたとの事であります。
 このような日曜学校教師の方々からの真剣な「声」を受けながら、しかし、もともと、大会教育委員会によってこそ、このような企てがなされるべきであろうと考えておりました。しかし、現在のところ、委員会の方ではその動きはないとの情報を得ました。ここに至って遂に、非力を顧みず、どれほど貧しいものであっても、自らの手で教案誌を作成しなければと、思い定めたのでありました。

 牧師として、説教準備の際にいつも自己検証することの一つに、伝えようとしている「事柄」と語る「言葉」の間に「裏切り」が起こっていないか、ということがあります。どう言うことかと申しますと、心を注いで「恵みの勝利の福音、生けるキリスト」を描きだそうとしながら、実際に語られた言葉においては、「律法主義的な、死せるキリスト」を語っているという現実であります。
 しかしこれは、おそらく牧師だけの問題、課題ではないと思います。およそ、御言葉を語る者であれば、誰でも、いつでもこの危険がつきまとうものなのではないでしょうか。日曜学校においても例外ではないと思います。個人的な経験をもとにしてのことでありますが(日本キリスト改革派教会のことではありません)、大人の礼拝式では、正しく聖書に則して御言葉が語られ聴かれながら、自分自身が教師、語り手になるそのところで、聴いた筈の教えを「変質」させてしまう言葉を語ることが少なからず起こっていると思います。例えて申しますなら、カルヴィニズム(神の主権)を聞いている大人が、子どもにはアルミニアニズム(人間の協力)を語っている、福音を聞いていながら、子どもらには律法を語るということであります。

 このような問題意識から、私共の日曜学校の健やかな成長の為に、日本キリスト改革派教会の将来のために、どれほど稚拙であったとしても、「どうしても」「一日も早く」「自分たち」の『教案誌』が欲しいと思い到ったのであります。
 そしてこの問題を克服する最善の筋道は、「教理の体得」にある。これも私共の確信であります。このようなことから、私共はまず最初に、別冊の『子どもカテキズム』をテキストにした、2年に渡るカテキズム教案作成に着手致しました。子どもらに(未信者・求道者に置き換えても同じことであります)キリストの福音の証人、語り手として召され、正しく・力強く語るために召されている以上、教理を「身につける」努力に終わりはありませんし、それは、自らの信仰の歩み、成熟そのものにも他なりません。
 カテキズム教育というと、「言葉」の理解に終始する過ちに誘われやすいかと思います。この教案誌は、それを克服すること、「事柄=生けるキリスト」に導かれることをこそ目標として、編まれることになっております。実際どれほど「裏切り」を克服できているのか・・・恥ずかしいばかりであります。皆様からのご批判、ご感想をお寄せいただければ心から幸いに存じます。
 携わって下さった有志の奉仕者は、いわゆる教会教育の専門家ではありませんし、未だ委員会としても、経済的にもなんら基盤も整っておりません。「志」だけで立ち上げたのであります。どうぞ、この業をお育てください。お祈りください。そしてご利用ください。御教会の日曜学校の全てのお働きの上に神の励まし、御導きをお祈り申し上げます。





第2号 まえがき (2001年7月)          木下裕也 (豊明伝道所宣教教師)


 先の中部中会第一回定期会におきまして『子どもカテキズム』と『教案誌』の出版費用40万円を中会財務から支出する旨の提案を承認していただきました。教案誌作成のこころみに、このようなかたちで中会的な支援をいただけましたことを感謝しております。
 同時にこの提案をめぐる質疑の中では、貴重なご意見やご要望を承りました。いずれ中会教育委員会のほうでもとりまとめや検討をなさるかと思いますが、教案誌編集部としても心から受け止めさせていただいて、よりよいものをつくることができるよう努めたいと思います。有志のかたちで始めたこのわざを、徐々に中会もしくは大会の正式な働きとして、その内実をととのえつつスライドさせていくことができるよう、今後も慎重にその方策を求めていきたいと考えております。あわせて『カテキズム』『教案誌』がより多くの教会の日曜学校で用いていただけますよう、さらなるご加祷とご協力のほど、よろしくお願い申し上げます。

 さて、私たちの教会では、毎月一回の日曜学校教師会のプログラムの中に「教案研究」の時間を設けています。その月の聖書箇所についての解説、カテキズム研究、指導上の留意点等について牧師が簡単な解説をほどこした後に、教師たちが自由に質問し、語り合います。各分級の担当者ごとに意見がとびかうこともあります。いずれにせよ、日曜学校の準備を教師個々の手にゆだねるのではなく、共同作業のかたちで教課への理解を深めていくことがねらいです。
 ところで「教案研究」の時を持つうちに気づいたひとつのこととして、教師ひとりひとりが「教える」べき言葉と言うよりも(もちろん日曜「学校」である以上は、この側面がきわめて重要であることは言うまでもありませんが)、みずからが聞くべき言葉として毎回与えられているみ言葉を聞き始めるようになったということがあります。み言葉の前に座すというときには大人も子どももありませんから、これは当たり前のようにして起こってくることかも知れませんが、やはり興味深いことでもあります。
 例えばある日の聖書箇所はサムエル記上17章の「ダビデとゴリアト」の箇所であったのですが、いつものように教案を検討する中でひとりの教師が、今の自分の目の前に岩のように立ちはだかっているゴリアトとは何であるのかと真剣な面持ちで問うたことがありました。教師たちがこのような角度から問い、み言葉に聞き、子供たちに語る言葉を獲得していくいとなみを重ねていくことが大切ではないかと深く思わされた次第です。

 私たちの教師会も行事の計画や事務的な事柄に追われて時間の余裕がなくなってしまうことはしばしばなのですが、何とかこれからもこの時間を確保したいと願っています。『教案誌』をただ虎の巻として用いるのではなく、教案研究の題材として用いていきたいと思うのです。





第3号 まえがき (2001年10月)          望月 信 (高蔵寺伝道所宣教教師)


 日曜学校教案誌の作成・出版の試みが、中会的なご支援によって支えられておりますことに、心から感謝しております。
 今回の教案誌が第3号であり、すでに編集部では第4号の作成作業を進めています。この一年間の発行のめどが立ち、少しほっとしているところです。編集部では、来年度に向けて、何か読み物のようなかたちの連載記事を掲載することを検討しています。毎週のカリキュラムを提供すると共に、日曜学校教師としての継続した学びの材料を提供することなど、皆様の益となるよう教案誌の充実を目指して参ります。この教案誌をより良いものへと育てていただくために、皆様からのご意見やご要望をお寄せいただくよう、心からお願い申し上げます。また、教案執筆の負担が特定の方に偏らないために、すでに執筆者の交代や担当の変更などを行いました。編集部では、現場の多くの日曜学校教師の方に、教案誌作成の作業に加わっていただきたいと願っております。執筆者として加わりたい方、ご推薦いただける方がありましたら、ぜひ編集部までご連絡ください。

 さて、日曜学校に携わる中で感じていることの一つは、日曜学校とは果たして「学校」なのだろうかということです。教案誌を作成しながら、根本的な疑義を申し立てるようなのですが、しかし、このことは一度ていねいに考えてみる必要を感じています。
 私たちの教会では、日曜学校への子どもの出席者は一、二名という現状です。それに対して日曜学校教師は六名であり、毎週の日曜学校は、大人が礼拝している中に幼い子どもが一人か二人共に出席している、といった光景になっています。子どもの人数が少なく、また幼いため、分級なども行うには至っておりません。ですから、毎主日、毎主日、主日礼拝に加えてもう一つ、子どもと共に礼拝を守っているという状況なのです。子どもを中央にして、子どもと共に聖書を読み、子どもと共に讃美をする、ごく簡素な礼拝です。その中で、日曜学校とは、本来、子どもと共に礼拝を守ることなのだという基本的なことに気付かされてきた次第です。
 日曜学校という「学校」という名称を用い、クラス分けをして分級を行う中で、「教える」ことに焦点が当たり、「礼拝する」ことがおろそかになっていたかもしれないと反省させられました。もちろん、礼拝することの中に教える要素も含まれていることは確かです。しかし、それは、いわゆる「学校」の教え方とは異なるものでしょう。その意味で、「学校」という名称をこえて、「神礼拝」へと子どもたちを招くことが求められていると思うのです。子どもと共に「礼拝する」「神を拝む」。このことこそが、日曜学校の営みの中心なのであると、あらためて思わされております。

 まもなくクリスマスを迎えます。伝道の良い機会として、さまざまな計画を練っておられることと思います。それらが、子どもと共に神を礼拝する業として豊かに用いられますように。それぞれの日曜学校の営みの上に、主なる神の祝福が豊かであるようお祈り申し上げます。





第4号 まえがき (2002年1月)          春名義行 (津島伝道所宣教教師)


 この号の発刊をもって、一年分の教案誌が発行されたことになります。一年間の発行が守られたことを、ここまで導いて下さり、支えてくださった神様に感謝いたします。
 また、この働きのために中会的に援助を認めてくださり支えてくださっていることを感謝しています。また、多くの励ましをくださり、お祈りに覚えてくださったことをも心より感謝しています。
 現在、編集作業は新たな一年の第一歩となる第五号の発行の準備を進めています。
 このように、神様のお導きと支えを、さらに中会的な資金的支えと、多くの方の励ましをいただけたことは、この働きを神様がなすようにと導いて下さっているのであることを、私たちに感じさせてくださる事柄であると思います。

 さて、先の大会に於いて教会教育のことが話題となり、大会的にもこの事が今非常に大きな関心事であることを確認できました。教育の問題と言いますと何か、教会とかけ離れている事柄のようにも感じます。しかし、教会における教育は、信仰継承の問題と直接的に結びつくものであって、それ故に無視することのできない重要な問題であるのです。また、信仰継承の問題と言うとき、それは契約の子だけではなく、すべての人に対する信仰継承が問題となります。教会での教育の問題は、信仰継承と結びつけて考えるとき、主がお命じになっておられることであると言っても過言ではないでしょう。ですから、教会的に本気で教会での教育のことを取り扱うことは非常に重要なことです。
 さて、教会教育という中で、私が長い間考えてきてやはり忘れてはならないと感じているのは、教会教育でまず中心となるのは何よりも礼拝であり、また礼拝における説教です。その礼拝の場でどのようなキリストが提示されることがまず第一となってくるのです。そして、そこで御言葉に聞く全ての者たちが、キリストにあっていかに子どもと、また人々と接していくか、つまり、御言葉によっていかに生かされるかが問題となるのです。その様に考えていくとき、日曜学校は「子ども礼拝」であることを、まず意識せずにはいられないはずであります。
 この礼拝の中で私たちは決して自己満足に陥ってはなりません。礼拝は常に神様が中心であり、私たちが主を崇めることができるように、主が導いて下さっているからです。ですから、特に礼拝において説教や奨励をする者たちは、その説教や奨励を神様が語らせてくださっているという畏れをもって語らなければならないのです。礼拝のすべてにおいて、神様の主権が現れ、それによって礼拝に対する、また奉仕に対する喜びが表れるのです。
 私たちの教案誌の働きは、このような教会教育のお手伝いをするためのものです。それぞれの教会において教会教育のために、それぞれにあった用い方をしてくださると幸いです。

 最後に、この働きに携わる私たちが、ますます、神様の御前に謙遜になり、自己満足に陥ることなく神様の導きの下にこの働きをなしていくことができるようにお祈りください。





第5号 まえがき (2002年4月)          村手 淳 (太田伝道所宣教教師)


 教案誌の発行も一年が過ぎ、二年目に入りました。私は途中から協力させていただいている者ですが、このことをここに記して、発行に最初からたずさわった教師や奉仕者の方々、またこの教案誌を用いてくださる各教会伝道所の日曜学校の方々と共に感謝を覚えたいと思います。同時にこれからの子供たちの信仰の成長を願って共に祈りたいと思います。

 私の働いている太田伝道所にも小学1年生を先頭にして小さな子供たちが5人います。毎週日曜学校をしながらこの子供たちの成長ぶりを楽しみにしています。子供たちが大きくなるに連れて、日曜学校の配慮や重要性も増しつつあります。そういう中で子供たちの成長ぶりに感謝を覚えもしますが、同時にそれを見守る私たち自身も、自分で言うのもおかしいですが、変えられていることに気がつき、感謝を覚えるようになりました。
 以前NHKで「少年2」という家庭裁判所のことを扱ったドラマを見たことがあります。その中で自分の子供の教育に失敗をした裁判長が「親は子供によって親にしてもらっているんだ」というセリフを口にしていました。なるほど、私が以前牧会した教会では親の情報交換を兼ねて「親業」を学ぶ会を教会学校として開いたことがありました。「親業」とはなんぞや!と言われそうですが、そういう言葉が最近ははやっているようです。その神髄を私は究めているわけではありませんが、その要旨は子供を教育するというよりも教育する私たち自身のことを見つめ直して、子供と向き合い、その接し方を考えるというものだったように思います。子供には必ず教育が必要だと私は思っていますが、ドラマの裁判長が言うようにその子供の教育を通して、自分が親としてまた日曜学校教師としてふさわしい姿へと育まれているのもまた事実ではないかと思います。
 この教える側としての感謝は単純なものではなくて、実際には多くの苦しみや痛み、悔いを経たものであるように思います。先のドラマの裁判長は自分の子供に対する過度の期待から子供を苦しめてしまったという大変な痛みを覚えながらも、その最後で「それでも子供をもって良かったと思う」と言って話しを終えていました。こうした苦労はなかなか口には出して言えないため、人と分かち合うことは難しいのですが、涙をしながらも感じ得た感謝を分かち合えたらいいのになあと思うことがあります。そんなもどかしい思いを感じながら、同じように取り組んでおられる日曜学校の教師や親の皆さんに心からのエールを送りたいと思います。





第6号 まえがき (2002年7月)          相馬伸郎 (名古屋岩の上伝道所宣教教師)


 お手元に第6号をお届けする事が出来ます事を、素直に喜んでおります。貧しいものかもしれませんが、精一杯の奉仕を捧げました。すべて皆様のお祈りとご協力のお陰であります。心から神と関係各位、読者の皆様に感謝申し上げます。
 今、創刊号(第一号)の前書きを記したときのことを鮮やかに思い起こします。「日本キリスト改革派教会としての『日曜学校教案誌』がどうしても欲しい、必要である。」非力をも顧みず、中部中会の有志でこの企画を立ち上げ、実行致しました。(このあたりの事は、第4号の小生の講演録をご参照下さい。)後日(!)、中部中会2001年度第一回定期会で、事業会計の援助を頂くことが可決されました。このようにして、子どもカテキズム1000部、日曜学校教案誌毎号400部が中部中会教育委員会より出版する道が開かれました。以来、第6号まで発行を継続することができ、しかも、教派を越えて採用してくださる同志の教会も与えられております。まことに感謝に堪えません。
 当初、「石にかじりついてでも」、この二年間の「カテキズム」をカリキュラムにした企画を全うしたいと祈りました。しかし、季刊発行の現実は、予想以上に困難を覚えさせられております。その頃、ある教師から、「教案誌の発行は、誰かが牧会を離れて専属でことに当たる体制が整わないと無理だと思う」と伺いました。その時には、「あまり高い目標を掲げずに、出来る能力の範囲内で、しかし開始することの方が大切ではないか」と思いました。今でも、その気持ちのままで奉仕させていただいております。しかし、専門家あるいは、専念する教師が必要であるとの思いは、つのってまいります。やはり、将来的には、そのような教会教育の専門家、少なくとも体制の整備は不可欠と信じます。しかし、そのためには、なお、時間をかけなければならないでしょう。それまで何もしないで、待つだけであってはならないと思います。むしろ、このような業の中で、そのような奉仕者も育ち、活躍の場が与えられると信じます。それまでは、石にかじりつくのではなく、「神に信頼して」、この灯火を消さないように、励んで参りたいと存じます。
 志と祈りのあるところには、神が必要な奉仕者、経済も備えられると信じております。第7号、そして『子どもカテキズム』による本カリキュラムの結びである第8号のため、さらには来年度以降の継続のためにも、お祈りとご支援を賜り、ご感想とご要望などをお聞かせ願いますように、心からお願い申し上げます。奉仕者一同、僅かずつでもより良き内容へと成長したいと願っております。
 これからも、皆様の教会と共に「一人でも多くの子どもに、たった一人の子どもに」心を熱くして、主イエス・キリストの福音を説く労苦に共に励んで参りたいと祈り願っております。皆様の教会の日曜学校の業が、祝福され、良き実りを結ばしめられますように!





第7号 まえがき (2002年10月)          木下裕也 (豊明教会牧師)


 私が中部中会の教育委員会の働きに一度目に加えていただいたのは、今から八年ほど前のことであったと思います(今年から再び教育委員会のメンバーです)。その当時から委員会での討論においても、従来から中会内で、また改革派教会全体で広く用いられていた教案誌についてしばしば論評され、また中会の教会学校教師研修会などの場でも、改革派教会の手による教案誌を求める声があがっていたように記憶しています。
 私たちの教会でもその教案誌を購入していましたが、やはり改革派教会の教案としてはそのまま用いることには問題も感じ、日曜学校教師会のおりに「教案研究」の時間を設けてその内容について検討し、時には修正をほどこしながら用いていました。
 しかしある時、この教案誌の使用を一度とりやめてみてはどうかとの意見が出され、勇気は要りましたが教師会として思い切って決断しました。もちろん私たちの教会独自の教案をつくることを前提にしてのことです。
 その後一年間、他教会で用いておられた「子どもカテキズム」を参考にさせていただきながら、牧師が毎週の教案を書きました。とにかく大変な仕事で、内容的にも不十分であったことを、今も教師方に申し訳なく思っています。
 そういう中で相馬伸郎教師から、中部中会で(当初は有志の牧師と日曜学校教師方で)教案誌をつくっていく旨の志をお伺いし、またお誘いも受けました。毎回力不足を覚えながら何とかここまで持ちこたえてきたというのが実感ですが、この働きをとおして多くのことを考えさせられ、また大きな益を受けることができました。
 今年度の大会役員修養会でも青年伝道や教会教育の問題について、かなりの時間をさいて活発な討論がなされました。今は改革派教会全体として、この重要な問題を根本から問い直し、将来に向けてしっかりとしたヴィジョンを描くための大切なときであろうと思います。
 さらに、この教案誌を大会教育委員会の発行にしていこうとの方向性が打ち出され、検討がすすめられてもいます。できるかぎりすみやかに実現するよう、期待をこめて待ち望んでいるひとりです。もちろん執筆陣をより広く求めることができることや、経済的な便宜等もありますが、何より日曜学校のカテキズムもやはり憲法の領域にかかわるものである以上、大会的な配慮と指導のもとにすすめられていくことがふさわしいと考えるからです。





第8号 まえがき (2003年1月)          遠山信和 (恵那教会牧師)


 中部中会の教案誌をお用いくださる皆様に感謝申し上げます。今回の第8号で、一つの区切りとなります。執筆してくださる方々の編集会議を通しても、子供たちに何とかして福音を伝えようという熱い思いが伝わってきます。祈りとともに執筆してくださった方々に感謝申し上げます。
 CSの子供たちが大幅に減少し、信仰の継承が私たちの教会の大きな課題となっている今日でありますが、あるベテランの教師は、「私たちは、子どもたちへの信仰教育に失敗したんだ。その事を覚えて、初心に返り、謙虚に、子どもたちに耳を傾けながら、信仰教育を考え、実践していく必要がある」と言われました。これまで、日本キリスト改革派教会(大会)において、私たちの神学や生き方に基づいた(継続的な)教案誌を作ることが出来なかったということも、失敗といいますか、いたらなかった点の一つではなかったかと思いますが、私たちは、「キリスト教教育」というものの理解を深めていくことが非常に重要ではないかと思います。
 今年の教会学校教師研修会は、カルヴィン神学校において、キリスト教教育を学ばれ、教育主事の資格をとってこられた吉田通志子姉を講師として行われましたが、吉田姉に、「日本の教会にもっとも訴えたいこと、必要をお感じになることをお話ください」と言いましたら、「キリスト教教育の役割とその意義について」という講演の主題をいただきました。要するに、キリスト教教育の必要性ということであります。これは、教会学校の先生だけの問題ではありません。親が子どもにどのようにして信仰を継承させていくか、聖書が教えているような、キリストの体なる教会をどのように形成させていくのか、賜物を用いて仕えあうことや主のために奉仕する人材をどのように育て育成していくのか、個人の霊的成長とともに教会全体の健全なあり方を聖書から追求していくことになります。
 残念ながら、神学校においてもキリスト教教育という科目はありませんが、例えば聖和女子大学と提携するなどしてキリスト教教育主事の履修コースが出来るようになればと願っています。自分が受けるだけでなく、教え、育てる人材がたくさん生み出されてくる人材を養成するために、キリスト教教育の必要性を痛感しています。
 福音書を見ると、イエス様は、いろんな方々に出会い、福音宣教をなさいましたが、もっとも力をいれてなさったことは、弟子たちをまことにキリストの弟子にしていくことであったことが分かります。そして、このことは、主が私たちに命じておられることでもあります。「イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:18-20)。
 この教案誌も、産みの苦しみを覚えながら、ともかく二年間やってまいりました。この働きの背後には、純粋に聖書の御言葉に立つ教会を形成していきたい、子どもたちに喜びのおとずれを伝えたい、という願いと祈りがありました。不十分なところや、訂正した方がよいと思われるところ、課題などもたくさん与えられましたが、日本の教会はいろんな意味で、なお開拓期の教会であり、初代教会のような、あきらめないでチャレンジする、開拓者精神を失ってはならないと思います。
 さらによいものを求めて、聖書に向かって、自らを改革しつつ、主の召しにお応えしてまいりたいと思います。感謝をもって。





第9号 まえがき (2003年4月)          相馬伸郎 (名古屋岩の上伝道所宣教教師)


 「このような形」で、皆様に『日曜学校教案誌』をお届けすることとなりました。申し訳なく思います。先の大会において、教育委員会から建議された、大会で日曜学校教案誌を発行することの提案が継続審議となったためです。
 正直に申しますと、私の心には、「これで『日曜学校教案誌』の働きは終わる」との思いがよぎりました。『子どもカテキズム』を土台にした二年間のカリキュラムは完結しましたし、大会的には切羽詰った必要性、危機意識がないとも思ったからでした。ところが、周りの仲間たちはいささかもひるみませんでした。どんな形でも継続しなければという熱い思いを示してくださいました。「そうであれば、のぞむところ!」、教案誌の灯火を消してはならないとの一念で、しかも、中部中会以外の奉仕者をも与えられて、2003年度の日曜学校教案誌発行に立ち上がりました。
 皆様の教会学校・日曜学校に資するものとなりますようにと祈りつつお届けします。
 私どもは憂えます。この国が、主イエス・キリストに背を向け続けていることを。子どもたちの心が、そのもっとも大切な時期に、非キリスト・反キリスト的な知識で占領されていることを。青少年が、道を失ってさまよっていることを。何よりも教会が、「これが道だ、ここを歩め」と大胆に示せないことを。
 どうぞ、愛する兄弟姉妹の皆様、日曜学校の尊い奉仕を続けてください。望みをもって、使命感を新しくして、共に楽しく奉仕をささげましょう。牧師方は、どうぞ率先して、子どもの前に立ってください。危機を唱え、立ちすくむだけでは済まされません。
 『日曜学校教案誌』は、名称は「日曜学校」ですが、もともと「教会学校」に資することを目指して発行いたしました。およそ、どのような教派・教団であっても、責任的な教派(教団)形成をしようと志す教会であれば、まず何はともあれ教派立、教団立の神学校を整備しようと励むのはほとんど常識です。そうであれば、同じように、信徒教育のために、教案誌のようなテキストを発行する努力を惜しまないのも当然であろうと思います。日本キリスト教会はもちろん、日本キリスト教団内の改革長老教会協議会や、福音主義教会連合でも(教団出版局発行の「教師の友」がありながら)、自らの信仰理解に基いてテキストを発行しているということは、それが教会形成の根幹に関わる事柄であるという認識が共有されているからでありましょう。
 我々が、改革派信仰の立場に立つ教案誌を持たずに、契約の子らと地域の子らを(そればかりか教える日曜学校教師方への影響があります!)教育することへの問題性を認識し、克服すべきではないでしょうか。
 大会的には、弊誌の存在を知らない日曜学校教師がおられるようです。まだ伝わっていないのです。教案誌発行は中会の業ですむはずはありません。私は、各個教会主義を克服するために中会主義の徹底を求める者です。しかし、我々が日本伝道を考え、日本キリスト改革派教会としての形成を目指す「教派(教会)」であれば、これが大会の課題であることは明らかではないかと思います。
 弊誌の小さな貧しい奉仕が、日曜(教会)学校再生の運動となりますようにと大きく祈りつつ。





第10号 まえがき (2003年7月)          遠山信和 (恵那教会牧師)


 多くの学校の先生方が「子どもは変わった」と言われます。「今まで通用していた指導が今年のクラスには通用しない。」「指示が入らない」と言われます。不登校、いじめ、家庭内暴力、リストカット、自殺願望、万引き、ドラッグ、援助交際、学級崩壊などという言葉も生まれてきましたが、子どもたちの心の思いを探っていくと、セルフイメージが弱く、自分を好きだと思えないで、「私の人生はどうせたいしたことはない。だからどう生きたって変わらない」という思いを持っている子どもたちが急増しているように思われます。若いときから、すでに人生をあきらめてしまっているわけです。
 こうした現象を見ると大人たちは、子どもにきちんとした生活規範を身につけさせなければと思うのですが、それ以前に大人たちは、子どもの心に寄り添ってきたのだろうか、子どもと向き合ってきたんだろうかという反省を求められます。
 あるテレビ局の中学生を対象とした番組で、「死にたいと思った人はいる?」と聞くと、半分近くの生徒が手を上げました。「どんなとき?」と聞くと、みんな答えは同じで、「お母さんと話したあと」、とくに食事のときだということでした。食事をするのは本来楽しいときのはずなのですが、なかなか話す機会がないためにお母さんはつい言ってしまいます。「もうすぐ期末試験でしょう。だらだらしてたらいけませんよ。がんばってね。」
インタビューに答えた一人の生徒は、お母さんに辛かった思いを告白しました。「今日、部活で後輩と○○で・・・。」しかし、お母さんの答えは、「なんだ、そんなこと。あんたの方が先輩なんだから、あなたがしっかりすればすむことじゃないの。しっかりしなさい。」お母さんに自分の気持ちを伝えても分かってもらえない。子どもにしてみたら、「そんなことがあったの、大変だったね」と、うけとめてもらいたかったのです。
 罪の闇とむなしさが地上を覆っている、心傷ついた子どもたちが大勢いるこの時代です。親に認められたい一心でよい子を演じる子どもたち、かまってほしいと授業中に立ち歩く子どもたち、一人になるよりはましといじめに耐え続ける子どもたち。彼らが立ち直っていくのは、信頼できる大人に出会うことによってです。「この人は私を拒絶しない。この人は私を受け入れてくれる。」主が私たちをそのように受け入れてくださったように、私たちも、子どもたちの隣人となるために祈ってまいりたいと思います。
 伝道においても、牧会においても、教会形成においても、子ども(の心)と出会うこと、子どもの心に届くこと、これが今日もっとも求められていることではないでしょうか。





第11号 まえがき (2003年10月)          木下裕也 (豊明教会牧師)


 この春、長男が小学校に入学し、しばらくして家庭訪問がありました。私たちの信仰についてもいくつかのことをお伝えしたうえで、「日の丸」「君が代」の問題に関しての配慮もお願いしました。担任の先生は「たいせつな問題ですから、考慮させていただきます」と応じてくださり、まずはほっと安堵しました。
 家庭や学校において子どもたちの心の荒廃をうつしだすような出来事が続けて起こっている一方で、「日の丸」「君が代」法制化、教育基本法の改正、文部科学省の手になる『心のノート』による「道徳」教育のくわだてなど、教育の現場における国家的介入の度合いが加速度的に強まっているように思われます。おそらくこのふたつの傾向には、何らかのパラレルな関係を見て取ることができるはずです。
 私たちの教会でも、かつて、「日の丸」「君が代」法制化に対応して、教会員の父兄が学校宛に配慮を求める手紙を書く場合の文案を作成したことがあります。教会にあっては子どもたちの教育を両親にまかせるのみでなく、教会もまた教育の責任を担うのである以上、こうした事柄にも教会的な取り組みが求められると考えたためです。その文案にこういうくだりを盛り込みました・・・「私どもの願いは、現憲法に保障されている思想及び良心の自由、信教の自由、教育を受ける権利にもとづいて、私どもの子どもたちが、国旗に敬礼「しない」自由と、国歌を「歌わない」自由とを確保していただきたいということです」。
 思想・信条の自由や信教の自由は、人の心の内面にかかわるもっともデリケートで、かつかけがえのないものです。現行憲法は、そうした領域に国家が無神経に、そして意図的にせり出していくことにブレーキをかけていると見ることができます。
 しかし、近代以後の歴史から見ても、この国はしばしば人権や人間の尊厳を守ることにおける鈍感さを示してきました。国家には個人の人生の意味や価値を決める権限はありませんし、人の生死を意味づける権利もありません。私たちの命と人生を意味づけ、また握っておられるお方はただ神おひとりです。私たちはこのことをいつもしっかりとわきまえておかなければならないと思います。
 以前、ダニエル書3章を扱ったおりに、教案誌編集部でも国家の動向を視野に置いた信仰教育ということがおのずから話題となりました。各教会の日曜学校教師会の場でも、よき語らいがなされますよう願います。





第12号 まえがき (2004年1月)          春名義行 (津島伝道所宣教教師)


 子どもが生まれ、子どもの成長を見ていると人間が原罪を持っている存在であることを感じます。自らの罪もそうですが、まったく何も知らないはずの子どもにも、罪の事実を感じずにはいられません。最初は生きるために必要な欲求を満たすための要求をします。それが成長するにつけ自分がほしいもの自分がしてほしいことに対する欲求が強くなり、それを満たすことができるまで泣き続ける。そんな姿を目にします。その欲求が満たされるまで要求し続ける姿の中に、人間が本来的に持っている罪の姿を見てしまいます。
 子どもは見ていると、天使のようであり、心を和ましてくれるものです。しかし、罪のない存在ではないのです。当たり前のことですが、子どもも罪人であり、キリストの贖いによる救いを受けなければいけない存在であることには違いありません。
 子どもの心は、信仰や良心について白紙のような状態です。しかし、罪については全く否定ができないほど、しっかりと持っているのです。その子どもが成長し様々な価値観を身につける前にキリストに出会えるようにすること。これも私たちの教会の責任ではないでしょうか? 「人間はどこから来てどこに行くのか」、また、「何を目的として生きるのか」。このような正しい価値観を得ることができるのはキリストを信じることによることだからです。その価値観を与え、キリストへと導き、子どもたちを救いに導くことができるのは教会だけなのです。
 人生に対する真の価値観を与え、キリストによる救いを子どもたちにも与えるべき教会は、何をすべきなのでしょうか? いかにすれば子どもたちが教会に集まるかという技術的なことを議論し学ぶことでしょうか? それとも、子どもの救いのために真剣に祈り、それに取り組むことでしょうか? わたしは神様に期待し、真剣に祈り、真剣に取り組むことだと信じています。真剣に祈り、子どもを主イエスに導こうと真剣に取り組んでいる教会には、たとえ今、子どもたちが少なくても、神様の時に応じて必ず子どもたちが与えられると信じています。
 この教案誌も、子どもたちの救いを真剣に考え、祈り、取り組んでいるものです。そして、教会の祈りと、子どもたちを主イエス・キリストに導こうという熱心なお働きのお役に立てればと願いつつ作成しています。
 今号も筆者一人一人の祈り、編集者の祈り、そして、これを使うすべての教会の祈りを神様が聞き届けてくださり、子どもたちがキリストと出会うための道具として用いられることを願っています。子どもたちがキリストを信じる信仰を持って歩むことができるように願ってやみません。




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